著名人との対談

VOL.54

堀ちえみ氏×山本一郎

舌癌を乗り越えての復活コンサート。”生きる”を選んだ先に見えた新しい自分

堀ちえみ氏×山本一郎

対談相手のご紹介

堀ちえみ氏×山本一郎

歌手

堀 ちえみ

Chiemi Hori

歌手。1967年215日生まれ、大阪府出身。B型。

1981年に開催された第6回ホリプロタレントスカウトキャラバンで芸能界入りし、19823月に「潮風の少女」でデビュー。 1983年に出演したドラマ「スチュワーデス物語」が日本中で大ヒットし、アイドルとして歌やドラマで活躍。現在は7児の母としてテレビ出演の他、教育や食育にまつわるトークショー、音楽活動と幅広く活動。2017年には品川ステラボールで35周年アニバーサリーライブを開催。家庭と仕事を両立しながら多忙な日々を送る。2019年に口腔がんと食道がんを公表し、その経験を伝えようと、講演会も積極的に行っている。

対談の様子

山本:堀ちえみさんは私の青春時代のまさにど真ん中で、同級生に堀さんの親衛隊が2人いました。コンサート前になると、休み時間に「ちえみちゃーん!」と発声練習をしていましたよ。学校の勉強もしないでアルバイトで稼いだお金を注いでいたのですが、親衛隊を 2年やっても出世できずにいて、いつも序列は下のほうでしたけれど。

 

堀氏:ありがたいですね。4月7日にデビュー40 周年プラス1ということで大阪・堺市でコンサートをさせていただきました。会場にはいまでも応援し続けてくれている親衛隊の方々も来てくれて、ファンのみなさんの前で歌うことができて、生きていて本当によかったと思いました。堺のコンサート会場は私が幼稚園のお遊戯会で“初舞台”を踏んだ場所で、会場に着いて車を降りたときにグッとくるものがありました。

 

 

 

山本2019 年の舌癌(口腔癌)の手術をされて4年。そこに至るまでさまざまな思いがあったと思います。おそらく何度も話されていると思いますが、これまでの4年間のお話を聞かせてください。最初に舌癌だと気づいたのはどういった経緯からですか。

 

堀氏はい。最初に違和感を覚えたのが 2018 年6月です。舌の裏に白くポツンとしたものができていました。口内炎なのかなと思い、翌日定期的に通っている内科で診てもらうとビタミンBが不足しているのではないかということでビタミン剤を出してもらいました。

しかし、2、3日するとさらに痛みが増して、かかりつけの歯医者を受診しました。そこは口腔外科もあり、口内炎治療に最適だと思ったのです。診てもらうとやはり口内炎ということで、レーザーで焼く治療を施しました。それでも、痛みが治まるどころか、しばらくするとほかの箇所にもしこりができてしまいました。その後も何度も歯科に通い治療したのですが、年が明ける頃には水を飲んでも激しい痛みを感じるようになりました。

そして翌年、2019 年1月 16 日の夜。激しい痛みとともに目が覚めて鏡をのぞいてみると、尋常じゃない腫れで舌が白くただれていました。急いでネットで検索すると「舌癌」というキーワードが出てきたのです。

主人にネットの舌癌の写真と私の舌を見比べてもらうと、「癌、かもなあ」と言って病院の予約をしてくれました。3カ月先まで予約が取れない大学病院だったのですが、偶然にもキャンセルが入って 21 日に診てもらうことができたのは幸運でした。

 

山本大学病院で診察してもらうまで半年以上、恐ろしい痛みに耐えて、お仕事もこなされて、最後には癌かもしれないという恐怖まで続いたのですね。大学病院で癌とわかったときの気持ちは私には計りしれません。癌とわかってすぐに手術をされたのですか。

 

堀氏まずは検査入院ということで、本来なら1週間ほどかかるところを仕事の関係で2日間で検査してくれました。翌日から仕事の合間をぬっての2日間。検査初日、午前中に検査を終えて午後は仕事の打ち合わせをして、夕方に気持ちを落ち着かせるためと、これからの長い入院生活を考えて美容院に行きました。

髪を切ってもらいながら、「自分の人生、これで終わっていいかな」と頭をよぎりました。でも、家族に癌を伝えたとき、次女が号泣しながら「お母さんともっと一緒にいたい。だから生きてほしい……」と言われ、「生きよう」と思ったのです。

検査結果が出たのは約1カ月弱でした。診断は「口腔癌」で、リンパ節への転移も見られ、診断結果は「ステージ4」ということでした。

ステージ4……さらに転移と聞いて「助からないかもしれない……」と、生きようと決めたのに逆に死が怖くなりました。

手術は2月 22 日でした。実際には 15 日の予定だったのですが、仕事も片づけておかなければならず、18 日には五男の卒業式があり、1週間手術を延ばしてもらったのです。

癌を公表したことで、私はこの1週間でその後の覚悟も決めました。手術の3日前の入院でしたから、入院前の 16 日にはTBS の 金スマ(中居正広の金曜日のスマイルたちへ)』に出演をさせていただきました。この番組が手術前の最後の仕事でした。もう歌うこともできないかもしれない。それどころか病室から戻って来ることもできないかもしれないという思いで、収録では歌を歌わせていただきました。

 

山本入院前日まで仕事をされて、普通の人なら絶対にできません。それも恐ろしいほどの痛みと死という恐怖と闘いながらですから。勇気、決意、覚悟……ファンへの思いの強さを感じます。そして、手術、リハビリと闘いが続いたのですね。

 

堀氏手術は舌の6割以上を切除して、太ももの組織を移植し、同時にリンパ節の癌を取り除くというものでした。耳鼻咽喉科、口腔外科、形成外科がチームを組んでの 11 時間におよぶ大手術。

手術が終わり、私はICU で3日間過ごすことになりました。しかし、この3日間が本当に地獄のような時間でした。体じゅうには何本もの管がつながれて、首もがっちりと固定されていて動くこともできません。一時的に喉も切開していたので声を出すこともできませんでした。

そうなると負の感情がどっと押し寄せてきました。手術前は「命を助けていただけるだけでありがたい」と思っていたのに、「あのときこうだったら……」「最初の診断が間違っていなかったら……」という思いが頭をめぐって、自分自身が情けなくなって。でも、ICU の3日目に、みなさんのおかげで「生かされている」と思うと同時に、自分が「生きる」ことを選んだのだということに気づいたのです。

私はもう一度前を向いてリハビリに臨むことにしました。まずは水や食べ物を飲み込む嚥下(えんげ)という訓練です。これは最初、ゼリーを食べることから始めるのですが、普通の人のように舌を使うことができないので、口のなかに長いスプーンを入れて、舌から落ちたゼリーをすくって舌の上に載せて、それをゴクンと飲み込めたら OK ということを繰り返します。そうやって舌をうまく使えるようになるまで訓練するのですが、これにはとても苦労しました。

もう1つ大事なのは発声・発語訓練です。うまくしゃべることができない自分に悲しくなり ましたが、元のように戻ることはできません。ですから、自分なりの新しい発声の仕方を見 つけていくことしかありません。嘆いている暇があったらもっともっと一所懸命リハビリ をしよう。いつか仕事に復帰して、もう一度みなさんの前で歌を披露できるようになろうと、前を向くことに全力を注ぎました。

 

山本お話をうかがっていても想像を絶する過酷な闘いだったのだと思います。11 時間にもおよぶ手術、ICU でのどうしようもできない 3 日間。

そのようななかで、前を向いて生きると決める。本当に強い方だと思います。生きるか死ぬかを選択するというのは極限の状態でしか突きつけられない問題ですから。

 

堀氏そうですね。でも私は、人間って簡単には死なないんだということを感じています。というのも、私は 30 代のときに生死をさまよった病気を経験しています。特発性重症急性膵炎でした。膵臓が破裂していて1カ月の絶食と抗生物質、痛み止めなどの投与で回復し退院できたのですが、命を落とす寸前までいっていたそうです。

そんな経験をしましたから、人間は簡単には死なないものだと思っています。あのときは「生かされた」と感じましたが、今回の癌では、手術後に意識が戻ったとき、「生かされた」という思いと、自分が「生きた」ということを実感しました。つまり、自分で生きる道を選んだんだと……

ICU にいたときは混濁した意識のなかで、もう苦しくて、もうダメだと死にたいと思うくらいでしたが、最終的には自分で生きる道を選んだんだと気づいたときに、生かされたのではなく生きたのだから、自分の思うようにしていこうというふうに思うようになりました。そして、自分が新しい道を選んだという気づきを得たからこそ、死んだあとの自分を考えるようになりました。もし私が死んだら静かに見送ってほしい、家族にはこの世界を終えた次の世界へ送り出してほしいと感じるようになったんです。

主人はそういうつもりはなかったようで、この世界で頑張ったんだから、みんなで盛大に送り出してあげようと思ってくれていたようですが。でも、自分で「生きる」という道を選んだということは、たとえば、自分が死というものを迎えたときには、「お疲れ様。次の世界に行ってらっしゃい」って送ってほしいと、素直に思えるようになりました。

ものすごく大きなお葬式でなくても、やはり見送りたいと思う人には来ていただいて。ただ、見送りたいけど見送る場がないなら、家で手を合わせればいいだけですし、お葬式自体こだわりを持たなくなりました。そういう意味では、死もそのあとも自然体で受け入れるように なりましたね。

 

山本私の経営感も堀さんの考え方に近いかもしれません。気軽にお墓参りに来ていただいて手を合わせることで、自分が死んだあとにも「残された家族が、こういうふうに来てくれるんだな」と自然に思うようになりますから。

家族の話ですと、堀さんは小さい頃とてもおじいちゃん子だったそうですね。

 

堀氏祖父は性格がとても開けた人で、1970 年代に世界一周旅行をしたんですよ。50 代のときです。ライオンズクラブの会長をやっていたこともあって、何か日本と海外の交流ができないかということで、交換留学生の受け入れなどの活動もしていました。

とても前向きな性格で、いつも私に「おまえは運がいいから、大丈夫だよ」という魔法の言葉をかけてくれました。芸能界に入るときも両親には反対されましたが、祖父だけは「おまえはラッキーな子だから、きっと成功するよ。でも、もしつらくなったら、いつでも帰ってきなさい」と送り出してくれました。

そんな祖父でしたが「お墓は近くにないとダメだ」と言うんです。堀家は菩提寺が高野山にある不動院の奥の院なので、雨のあとなどは大変でした。もう泉北の山を上がって行くのですが、道はぬかるんでいて、置いてある木の板をポンポンと駆け上がって、ドロドロになりながら山の中をお墓参りに行っていました。そんな場所にお墓がありましたから、祖父は自分が亡くなったときに誰も参れなくなってしまうと思ったのでしょう。泉北の岩室に霊園ができたときにお墓を移しました。

祖父が亡くなったとき、私は 『スチュワーデス物語』の撮影中で東京にいました。親の死に目にも会えないと言われていた芸能界で、仕事を休んでお葬式に出るのなんてダメだという厳しい時代でしたが、無理を言ってお休みをいただいて、2日間通夜と葬儀は出て、出棺まで送り出すことができました。

祖父が入院をしていたとき、もっと付き添ってあげたかったですが、お墓に行って祖父と話をするといまでも心が落ち着きます。ですから、いつでもお墓参りができる環境は大事ですね。

 

山本当時の芸能界では、親の葬儀に出ることすらはばかられる時代だったなか、おじい様は、見送ってあげたい大切な方だったことがわかります。

また、いつでもお墓参りできる環境は私たちがいつも考えているテーマです。おじい様がお墓を移した意味も重要ですね。

 

堀氏私の父親は次男でしたが祖父母と一緒に同居をしていて、小さいときからお仏壇がある家で育ちました。学校から帰って来てランドセルを降ろして、お線香をつけて、その香りを嗅ぎながら手を合わせて、「ただいま帰りました」って、ご先祖様に言うのが日課だったんです。

お墓に行ってもお線香が高く上がったら、祖母が「ご先祖さんが喜んではるわ」と言うので、私もそう思って育ってきました。だから、家にお仏壇があるというのはとても幸せなことで、お線香の香りを嗅ぐととても落ち着きます。いまも毎日、白檀(びゃくだん)のお線香を立 てています。

主人も私の気持ちを理解してくれて、お墓参りのためだけに大阪に帰るときも一緒に行ってくれます。とても幸せな環境です。

 

山本私たちもお墓は幸せなものだと思っています。だから、うちの霊園の名前も「ハピネスパーク」と名づけています。

 

堀氏とても素敵ですね。人間、生きている間にさまざまなことが起こります。地震だったり事故だったり、最近ではコロナだったり。人生本当に何があるかわからないなかで、死んでしまったらお終いと考えるよりも、次の世界があってそこへ旅立っていくと考えたほうがハピネスです。

死を怖がって生きていくよりも次の世界があると考えて生きていくほうが絶対にいい。だからこそいまある命を大切にしていける。それは人と人とが支え合って、お互いが持ちつ持たれつ感謝し合いながら生きていくことだと思います。そうした人生のなかで、相手を思う気持ちが亡くなったあともメッセージとして残る。とくに残された家族には、そうしたつながりを残していくことが幸せということなんだと思います。

 

山本その通りですね。私どもの霊園に、ある6歳の女の子が1人でお参りに来ていました。おじいちゃんとおばあちゃんに可愛がってもらったから会いに来ているんだって。

そんな姿を見て、不思議な感覚を覚えましたが、おじいちゃんとおばあちゃんは孫との幸せな人生を送っただけではなく、孫にも幸せをもたらせたんだなと思いました。

 

堀氏若い人はお墓参りの手順や方法があるのではないか、間違ったらどうしようとわからないから行かないということもあるのではないでしょうか。ただ行きたいときに行けばいいだけなのにと思います。

主人は、私がお墓参りしたいと言うと、今度の休みの日に行こうと桶と杓とお線香とチャッカマンを車に入れて、霊園で売っているお花を買って気軽に行きます。たまにきれいなお花が添えられていたりすることがあって、おそらく子どもが参ってくれたんだなというときがあります。誰が行ったのかあえて言いませんし、言われればありがとうとお礼を言う程度です。お墓参りをしたことに照れがあると思いますし。ただ、親がお墓参りをする姿を見て、強制ではなく自然と当たり前になっていくのだと思います。

 

山本素晴らしいですね。ご両親の姿を見て子が育つという自然体の教育そのものです。ご主人も堀さんのことをとても理解してくれて、仲の良い 2 人の生き方が子どもを成長させる。堀さんが癌になったときもご主人の支えが大きかったのではないかと思います。

 

堀氏実は、主人は私をはるかに上回るほどのポジティブな人なんです。祖父と同じように「君は運がいいんだよ」と常に言っています。舌癌の疑いがあって大学病院に予約を入れる際も、初診のうえに紹介状もない状態で偶然にもキャンセルが出てすぐに診てもらえましたが、「君はラッキーだから」とポジティブでした。私はものすごく痛くて、癌かもしれないというのに。でも実際に、心が折れそうになったときにこの言葉をかけられると、自分もそう思えるから不思議でした。主人の言葉に、これまで何度も励まされ勇気をもらいました。

また、こんなこともありました。癌の手術も終わり嚥下訓練をしていた頃、あるテレビのニュースで「嚥下食レストラン」が紹介されていました。フレンチレストランが嚥下食のフルコースを出してくれるというもので、私が主人にこのレストランに行ってみたいと言うと、予期せぬ言葉が返ってきたのです。「君は、もう嚥下食を食べる段階ではないでしょ。もう次のステージに進んでいるんだから、それなら君が好きな美味しいお肉を食べさせてくれるお店に行こう。そこでたくさんお肉を食べることを目標にして嚥下訓練に励んでみよう」と。

こんなふうにちょっと高めの目標を決めてくれて、私も努力しようと思うんです。

 

山本運がいいと思っている人は本当にそのように導かれていくと言いますね。ただ、癌患者の家族も“第二の患者”と言われます。

堀さんが死と向き合ったように、ご主人も本当に大変だったと思います。それをポジティブとらえて励ましていく。そんな状況なら、ふつうは気遣ってしまいそうなものですが。

 

堀氏主人は私にも子どもたちにも、死という問題に対してオープンですね。主人の父親が亡くなったときにお墓を建てたのですが、子どもに自分が買ったお墓だと自慢するんですよ。すると、子どもが「僕はどこに入るのと?」と言うと、「おまえは自分で買わなきゃダメだ」と冗談を言うくらいですから。

実際は、主人が 30 代のときに父親が突然病気になって、お墓も仏壇も用意できないと言い残してすぐに亡くなってしまいました。そのときに「俺がちゃんとやるから安心して」と言えなかった後悔があると、私に言っていましたけれど。

私にも「おまえが先に逝ったら、お墓に可愛いリボンをつくってやるよ」と言っています。こうした話は死んでからでは聞けないですから、生きているうちにしたほうがいいんでしょうね。

子どもたちもそんな主人を見てきていますから、私が癌になったときも変に気を遣うことなく励まし支えてくれました。ストレスは癌によくないとか、笑ったほうがいいということを調べてくれたようで、入院前日も「なんだかんだ言って、お母さん、絶対に死なない気がする」などと明るく送り出してくれました。私もその日は安心して眠りにつくことができました。

 

山本家族の支えは、たしかに頑張れる原動力になりますね。堀さんはこれまでにもさまざまな病気をされて克服されてきましたが、どんな境地にも負けず頑張ってこられたのは、やはり堀さん自身の常に前を向く力だと思います。

 

堀氏自分の身に起きた状況を悲観すると、「なんで、私ばっかり……」ととらえてしまいます。でも、目先を変えたら「それがあったから、いまの私がいるんだ」と、どんな自分も認めてあげることができます。

人は考え方次第で何か嫌なこと、たとえば、誰か人に会って嫌なことがあったりしても、「この人と会ってしまったから」と考えるのではなく、「この人と会って嫌な思いをした。でも、この思いから自分が得たものは何だろう」と視点を変えると、次にその人に会ったときに別の感情で接することができます。

人生においても同じで、反省はしても後悔はしないって決めて生きる。たしかに病気になると後悔してしまうものです。癌の告知を受けたときも「なんで、私が癌に……」と何かのせいにしたくなります。誰かのせいにしたり、食べ物のせいにしたり、環境のせいにしたり……。でも何が原因だったのかという原因探しばかりすると、今度は支えてくれている家族とうまくいかなくなってしまいます。

だから、原因探しをすることに時間を費やすよりも、いまの自分を見直して反省して「なってしまったものをしょうがない。だったらどうするか」と考える。「どうするか」を考えれば、結果的に前を向くことになる。私は考え方次第で、人は前を向くことができると思います。

とくに私の場合、障害が残る部位(舌)の癌で、当然落ち込みましたが、どうするかと考えたとき、もう元には戻らなくても、もう1回自分が言語を一生懸命習得すればいいんだと 思って、時間をすべてこれからのほうにシフトするというか、自分の気持ちをチェンジして、メンタルを未来に向けてやっていく。そのほうが建設的だと思うんです。

やはり、自分の人生ですから自分の思うようにしたい、自分の思うように生きていっていいと思うんですよ。誰かからこうしなさい、ああしなさいと言われて生きる人生ではなくて、自分の思いに一所懸命ついていくような生き方が一番だと思うんですよね。仕事の責任、子どもに対しての責任、そういうものはちゃんと果たしていかないといけないですが、そのうえで他人に迷惑さえかけなければ自分の好きなことをやっていい。そして、あの世に行けば行ったで、そのときにはまた自分がやりたいことがあるだろうくらいに思う。だからこそ、いまを頑張っていくって。

ただ、そうした自分を見せていくうえで、感謝の気持ちは忘れてはいけないと思います。癌になって、あらためて自分ひとりで生きていけるわけではないということを実感しました。多くの病院の関係者の方々のご尽力のおかげで私は生き抜けましたし、家族や応援してくれたみなさんも含めて感謝の思いでいっぱいです。

もちろん1人ひとりにありがとうと言いたいですが、そのぶん朝と晩に手を合わせる。感謝から始まり感謝で終わる。それがお仏壇だったり神棚だったり、足を運んでのお墓だったりなのではないかと思います。感謝の気持ちを持っていれば、人は手を合わせたくなりますものね。ありがとうを伝えたい気持ちが、きっと誰かに伝わっていると信じています。

 

山本自分の思いのまま生きていく姿を、感謝を持って伝えていく。堀さんの生き方にとても感銘を受けました。私の仕事も業界を変えたいという思いでやっておりますが、どんな壁にぶつかっても何かのせいにしないで、感謝の気持ちを持って進んでいこうと思います。 そんな素晴らしい生き方をされている堀さんですが、堀さんのこれからを教えてください。

 

堀氏そうですね、いま考えていることは、ライブは毎年やって、紅白にも出るって思っています。あとはちょっと言語がうまくなったら映画にも出るとか、いっぱい夢はあって……。私は本当にダメだと思ったとここからはい上がったので、もうこれ以上落ちることはないかなって思っています。底を見たら上がるしかない。それでもまだまだと思ったときは、もう一度底まで行って自分を落としてはい上がる。

最初にお話した堺でのコンサートは、改修されて新しく生まれ変わった会場で、私自身も生まれ変わったんだと思っています。堺にはお墓もありますし、やはりご先祖様が守ってくれていると思わずにいられません。結局はそこに行き着くのかもしれませんね。

 

山本やはりご先祖様を大切にされているからですね。それにしても堀さんの夢をうかがったいま、私も堀さんを心から応援していきたくなりました。まずはライブに行かないと…………。

そのときの再会を願って、今回のインタビューを締めたいと思います。堀さん、本日は本当にありがとうございました。