著名人との対談

VOL.55

桂米助氏×山本一郎

6000軒以上のお宅訪問で見た人情。それは人生でもっとも大切にしたいもの

桂米助氏×山本一郎

対談相手のご紹介

桂米助氏×山本一郎

タレント・落語家

桂 米助

Yonesuke Katsura

タレント・落語家。1948年4月15日生まれ、千葉県出身。O型。
タレントとしてはヨネスケ、落語家としては桂米助の名で活躍している。
高校卒業後の1967年に桂米丸氏へ弟子入りする。1967年に浅草演芸ホールでデビューし、1971年二ツ目に昇進、1981年に真打へ昇進する。1985年から2011年まで放送されていた『突撃!隣の晩ごはん』のリポーターを務めた。6,000件以上の家に訪問し、自称「日本一の不法侵入者」。2020年よりYouTubeでチャンネルを開設したほか、X(旧twitter)やInstagramでも精力的に発信している。現在のレギュラー番組として『虎ノ門市場~幸せごはん漫遊記~』、『ラジオ深夜便』に出演中。

対談の様子

山本:ヨネスケさんは、落語家の“桂米助”とタレントの“ヨネスケ”の2つの名前を使い分けた二刀流の活躍をされていらっしゃいます。まずはヨネスケさんとしてのお話をうかがいます。

当時の日本人で知らない人はほとんどいないと思いますが、あの長寿番組『突撃! 隣の晩ごはん』のことをお聞きしないわけにはいきません。師匠にこの仕事がきたときはどんな思いだったのですか。

 

ヨネスケ氏:あれはオーディションだったんですよ。50人くらいいたと思うんだけど、適当なことをしゃべったら受かってね。それで1回目は打ち合わせがあって、東京新宿にある戸山ハイツっていう団地を突撃するということになったの。

1回目なんで、あらかじめ「これから行きます」ってディレクターが言っちゃったらしいんですよ。こっちは突撃のつもりだから、「突撃! 隣の晩ごはん」って言って玄関に入ったら、おばあちゃんが出てきて三つ指をついて迎えられてね。晩ごはんを見たら鰻があって天ぷらがあって寿司があって。そんなの80の老夫婦が食べるわけがないじゃないですか。しかもご主人、ネクタイを締めて茶の間で待ってた。これはもうどうやったってやらせだと思うから、これはダメだっていうんで、団地ですからほかのお宅に入ったらそれが面白くて。それからずっと突撃ですよ。

 

山本:アポなしで突然に家に上がるのは相当難しかったのではないでしょうか。いまなら考えられない企画です。やはりそこは苦労されたのではないですか。

 

ヨネスケ氏:いまと違って昔は隣近所の付き合いがあった。たとえば、お味噌が切れたりお米が切れたりすると、「貸してください」って行き来していたし、「カボチャができたから食べませんか」とか「ヒジキをつくったのでどうぞ」とかいうやり取りをしていたから、突撃も2軒、3軒って続くんですよ。

いまは僕が住んでいるマンションの住人に、おはようって言っても返してくれる人はほとんどいないですからね。それだけ近所の付き合いが変わっちゃってるんですよね。だから、当時はそれほど苦労はしなかったけれど、家に上げてくれたらそこから話をしてもらわないとならないから、いろいろ工夫はしましたよ。

たとえば、家に入って仏壇が見えたら、必ず「ちょっと待って」と言って仏壇に手を合わせる。そうすると向こうから話してくれるんですよ。仏壇に手を合わせると、ずかずか入って来ても図々しいなと思わないらしいですよね。そうして僕が仏壇で拝んでいる間にスタッフが玄関の靴をそろえるんですね。当時はそんなチームワークでやっていました。

あとは絶対にけなさないということ。たとえば、玄関先にランドセルが放ってあったりなんかすると「お宅のお子さん、元気でいいですねー」とか、部屋が散らかっていたら「お母さん、忙しいから、そんなに片づけている暇ないよね」とか、冷蔵庫をパッと開けてみて乱雑になっていると「いやぁー、いろんな料理つくってるから乱雑になっちゃうんだよね。でもお母さん料理上手でしょ」とか、絶対にけなすことはしませんでした。けなしたら即帰ってくれって言われるからね。

 

山本:仏壇に手を合わせるというのは素晴らしいですね。私も私のスタッフも訪問先のお宅の仏壇にまずは手を合わせますから。それにしても『突撃! 隣の晩ごはん』は25年間、その後の「突撃!シリーズ」も合わせて6000軒以上のお宅を訪問していますね。本当にすごいことです。

 

ヨネスケ氏:昔の日本は隣近所みんな親戚のような付き合いだったじゃないですか。子どもが学校へ行くのによその家の庭を通って行くのは当たり前。だから、突撃しても鍵をかけていない家が多かったから入りやすかった。あとは、いまだとスーパーとかコンビニがしっかりしているから、おかずなんかは自分でつくらない家庭が多い。いまはお袋の味じゃなくてスーパーの味になっちゃって。だから、番組をもう1回やってみたいと思うけど、いまだとただの不法侵入になっちゃう。やっぱりいまの時代は無理でしょうね。

 

山本:そうした時代背景があったからこそ、当時の生活をリアルに描くことができたのでしょうね。とはいっても、番組ではさまざまな出来事があったことと思います。アポなしですから、そこで描かれる様子はまさにドキュメンタリー番組ですよね。

 

ヨネスケ氏:あるお宅で老齢の方がいて、部屋に入ったら壁に3つ写真が飾ってあったんです。うかがうと、「これが私の息子、これが孫2人」と言うんです。事情を聞くと漁師の一家で、船が転覆していっぺんに3人を亡くしたなんて話し出すんですよ。そんな悲しいエピソードがあったりしてね。

そういえば、漁師のお宅ではこんな話もありました。千葉県の勝浦という漁師町に行ったときに晩ごはんがカレーライスだったんだけど、撮影するのはダメだって言うんですよ。肉が入ってないから恥ずかしいって。でも蓋を開けたら中には伊勢海老が入っていて。それにアワビやウニも入っていて「すげぇじゃないですか」って驚いたことがあります。でも、これは漁師さんにしてみると自給自足なんですよ。それよりも肉が高価で、自分で捕ってきたものを入れているだけから恥ずかしいって言うんですから、まさにドキュメンタリーですよ。

“こっち”の世界のお宅も入ったことがあります。着物を着て料理をつくっていた清楚な奥様がいて、鍋の蓋なんか開けていたら隣の部屋から「誰だ! うるせぇこと言ってるのは」って声がする。それで襖をそっと開けてみると、見るからにやくざのいでたちで。私、こっちの世界の方と交流がないんで謝って逃げました。そのときは慌てて大事な看板のしゃもじをお宅に忘れてね。まいりましたよ。

あとは、自分の家にも突撃したこともありました。いつもよその家ばかりで自分の家もやらないと悪いと思って自宅突撃しました。そうしたらかみさんが出てきて、「ああ、いやだ~」って言って、ガチャッと鍵を掛けちゃって。けど、僕も鍵を持ってますから。

それで家の冷蔵庫を開けたら今晩のおかずが入っていて……。こっちのほうが恥ずかしくって、ここでは何だかは言えないですけど。その日、かみさんは寄席に電話したらしいんだけど来ていないというので、おかしいなとは思っていたらしいですけど。そんな自分のドキュメンタリーまで撮りましたね。

 

山本:まさにリアルですね。しかし、そんなリアルを描くには訪問先の方の話を引き出さなければならないと思います。師匠のご著書に『人たらしの極意』という本があって読ませていただいたのですが、この中に「先入観は可能を不可能にする」とか、「ピンチやアクシデントを笑いに変える」「女性を褒める」など、多くの示唆に富む勉強になるような言葉がありました。とくに師匠は褒め上手ですね。

 

ヨネスケ氏:結局、ものすごい顔で断られた場合はダメですけれど、ちょっと笑い顔でダメと言っている人は、うまくほめて押していくといいんです。「ああ、その洋服はいいじゃないですか。格好いいですねー。どこで買ったんですか」と褒めながら中に入って行って、場をやんわりとさせるということはありましたね。

とくに女性を褒める場合は、本人ではなく子どもを褒めると喜ぶんです。でも、褒め方も番組でわかったことがあります。一番大事なのは、小さい男の子がいて誰が見ても男の子だと思っても、まず「女の子ですか? かわいいお子さんですね」と言うんですよ。するとお母さんは「えっ、男の子よ」と言いながらも笑っています。つまり、相手が女の子と間違えるほどかわいいんだなと思うんですよ。だから、赤ちゃんを抱いている女性に「お坊っちゃまですか?」って言っちゃダメですよ。もし女の子だったら大変です。「そんなにうちの娘はブスなの!」ってなっちゃいますから。

だから、男の子でも女の子でもどっちでも、とにかくどっちに転んでも、「女の子ですか?」「お嬢様ですか?」って聞くのが正解なのよ。

 

山本:師匠の話は、まさに人間関係やビジネスにも通ずるものです。人間関係の中で師弟関係の厳しい落語界という世界に身を置いていらっしゃいますので、付き合いもしっかりされていると思います。

 

ヨネスケ氏:僕らのときは三遊亭小遊三、小痴楽(第5代目柳亭痴楽)、三笑亭夢之助ら4人のグループで毎日のように遊び歩いていましたからね。いまはって言うと、コロナで外で飲んじゃいけない、遊んじゃいけないってなって。インターネットも発達していますから個人でやっているような感じですよね。だから、若い落語家さんはみんな上手いですよ。でも3年続けて聞いていると飽きちゃうわけ。みんな同じで型にはまっているから。僕らのときは上手いやつもいりゃ下手くそなやつもいる面白い世界だった。いまはコロナになってからは人と接しちゃいけないということで、兄弟子の着物もたたまないで、前座が一番偉そうな感じで着物は自分でたたむという世界になっちゃうね。

でも、僕らくらいの年配から小言を言うとまずいから、もうちょっと下のやつに「あれ、言っといたほうがいいよ」と。それをまたもう1つ下のやつが言ったりして。僕らのときは頭ごなしに「このくそ馬鹿野郎!」って、“くそ”が付いたからね。落語の世界の人間関係も変わってきていますよ。

 

山本:落語界もすいぶんと様変わりしてきていますね。ネット社会になり誰もが一応に技術を磨くことができるようになりましたが、人を通じて学んでいく、先輩のやり方を盗むということで自分の型をつくることは大事なことです。やはり桂米丸師匠は厳しかったのでしょうね。米丸師匠はご存命で、いま98歳ということですが100歳は迎えそうです。

 

ヨネスケ氏:本当に元気で。コロナがあってからなかなか会えないんですけどね。だから師匠は電話をしてくるんですけど、これがやたらと長い。30分以上しゃべって、最後に「ヨネスケ、おめえもしっかりしなきゃいけねぇよ」って。75歳がしっかりしようがない。

僕は18で師匠の弟子になっているから、師匠はいまだにあの頃の気持ちで見ているんじゃないないでしょうか。親子の関係ですよ、本当に。なにせ今年で白寿でしょ。だから75になってもまだ頭が上がらないやつがいるってことです。家で横になってゆったりしていても、師匠からの電話だと、跳び起きて頭を下げていますよ。へたしたら僕のほうが先に死んじゃう。そうしたらうちの師匠が葬儀委員長やるんじゃないのって。

 

山本:米丸師匠がお元気で何よりです。75歳になられた師匠でも頭が上がらないような師弟関係は大切な関係ですよね。落語界という伝統の重みを感じます。それと比べると、いまの漫才の世界には強い師弟関係というのはなくなりました。師匠自身は若い落語家さんとどのような関係を持たれていますか。

 

ヨネスケ氏:もうなるようになるというか、あまり力まないですよ。そのまんま川の流れのような感じです。だから落語も、もうトリはとらないですね。トリは若手にとらせる。トリをとらせることによって若手がそのドキドキ感がわかるようになりますから。僕たちのような者がいまでもトリをとっていたら、ずっとトリをとるドキドキ感が体験できない。だから僕は「もうトリはとらないよ」って言っています。

若手も自分でやってみると言ってトリをとりにいっているから、そのほうが若手が伸びていくんじゃないかな。僕は「ヨネスケが出ているから見に行こうか」と思って寄席に来てくれる「客寄せパンダ」でいいと思っています。だから落語も30分もやらないで15分くらいで切り上げていますよ。

 

山本:先ほどの本にもあったのですが、『突撃! 隣の晩ごはん』のときも手柄をスタッフにあげる、師匠は自分がやったということを絶対に言わないと書かれていました。いまの若手にトリをとらせるというお話にも通じます。最近では師匠が若手を交えて『突撃! ヨネスケちゃんねる』というユーチューブもやられていますね。

 

ヨネスケ氏:下の者を伸ばすには、そうしたことが一番いいじゃないですか。やはりみんな褒めて育つよね。いまはテレビで落語をやることがないし寄席に上がる機会も減ったから、ユーチューブで撮ってあげて。その代わりユーチューブで落語をしゃべることは絶対にやりません。彼らとは楽屋とか1対1で、いまどう考えているのかを聞いて、寄席にどうやったら見に来てほしいかという話をしていますね。

最近、春風亭小朝さんに出演してもらったんですが、小朝さんは僕より3年遅く落語界に入門して、僕より1年早く真打になった天才ですよ。小朝さんは落語に対するいわゆるプロデュース力があって、ただ落語をやっているだけじゃダメだよって、落語会をいろいろと考えていますよ。

僕は落語界に対してひと言で言えば、上方落語、円楽党、立川流、落語芸術協会、落語協会などが全部ひとつになってやってもらいたいね。あるときは東京の落語家が大阪に行く、大阪の落語家が東京へ来るとかね。

テレビを見ている人や寄席に見に来てくれる人にとって、どの一門か、誰の弟子かだって関係ないんですから。面白ければいいし、面白くなければダメだし、だからどこの協会でもいいんじゃないかって思いますよ。

落語は勉強じゃない、だから垣根を越えて仲間と飲みに行ったりすることも必要なんですよ。そして、いろんなものを見なきゃいけない。落語って庶民のものだから、こんなことを言ったら悪いけど、遊びみたいなことはある程度は経験しなきゃならない。はまっちゃまずいけど、ある程度知らないと落語に色気が出てこないっていうことはあるよね。

 

山本:若い落語家さんへの思い、これからの落語界のことなど、人のことを第一に考えている師匠の思いが伝わってきます。

そんな仲間思いの師匠ですが、お仲間だった痴楽さんは57歳で亡くなられて、一門でも歌丸さんが亡くなって、そして円楽さんも亡くなり、落語界を背負ってきた方々が世を去りました。仲間や兄弟子が亡くなって、やはりかなり落胆しますよね。

 

ヨネスケ氏:この寿命だけはしょうがないからね。だから、そっちに行くときに悔いのないように死にたいなという感じですよね。いまを生きているだけで感謝しなきゃいけない。だからっていうわけではないけれど、僕はウォーキングするときは必ず100円玉を幾つか持って出かけます。というのも、僕の住んでいる周辺には、穴八幡神社や金弁財天なんか神社があって御岩稲荷とか田宮稲荷もある。お寺も多くあるんだけど、神社でもお寺でも必ずお賽銭を投げています。そのときには自分の願い事を言わないで、「近くに来たんで寄らさせていただきました。これからますます弁天様のご発展を心よりお祈り申し上げます」って、それだけ言って参っています。あと近くに、僕の師匠の師匠に当たる古今亭今輔のお墓があるんですよ。そこにもやっぱり手は合わせますね。

僕はガキの頃から仏壇に「お茶を入れろ、拝め」って言われてきましたから、それが当たり前のように育ちました。だから拝んでいると、神様仏様に守られているというような感覚でした。別に何か宗派があるわけではないんですけどね。ウォーキングのときも、どんな宗教団体の事務所でも、その前を通るときはちゃんとお祈りしますよ。それやらないと気が治まらないというか心が休まらないというか、そんな感じですかね。

 

山本:日本がいいのは一神教ではないところです。よくお寺や神社にお参りする人が、「あそこに行ったらあまりうまいようにはいかなかった」と言われます。ほとんどの人が、たとえば初詣に行って、「今年は大金持ちになりますように」などと祈ります。

でも、師匠のように100円玉1つでもいい。大事なのは感謝して挨拶だけすればいいんです。お墓参りは年代によって手を合わせたときに祈る思いがどんどん変わってくるもので、還暦を過ぎて成功した人は、いまを感謝しています。若い人はけっこう自分の願望ばかりを言っている人が多いですね。手を合わせるだけでいいのですが。師匠のお話をうかがっていると、神様も人との関わりも師匠の生き方そのものだと感じます。

 

ヨネスケ氏:やはりお袋や姉さんが手を合わせることを教えてくれたことには感謝していますよ。

僕はお袋と姉さんにすごくよく育ててもらったから、毎朝、今日もここへ来る前にも手を合わせてきました。サイドボードの上にお袋と姉さんの写真を飾っていて、そこに白湯と塩をそなえて「ありがとうございます」と言っています。仏壇はないんですけれど。

 

山本:仏壇というのは、もともとは本山のミニチュアで、人が散らばって生活するようになって本山に参れないということからつくり出したのが始まりです。それまでは、たとえば本願寺だったら1年に1回はお参りしなさいと。ですから、仏壇はなくても大丈夫です。師匠が毎朝、お母様とお姉さまに手を合わせることのほうが大切です。

 

ヨネスケ氏:写真を置いている姉さんは家族4人兄弟姉妹の長女で、お袋は4人を女手ひとつで育ててくれました。4人とも愛人の子でね。姉さんは小児麻痺だったんだけれど、お袋が働きに行っているときは姉が読み書きから全部教えてくれていました。姉さんは僕と20歳以上も年が離れていたんだけれど、本当に苦労の人生だった。だから、お袋と姉さんに早く楽をさせてあげたいっていう思いがいつもありました。

それで、高卒でも出世したら親孝行ができるって、姉さんに落語家になりたいと言ったんですよ。そうしたら姉さんにはえらく反対されましたけど。まあ、もともと落語が好きだったということもあるんですけどね。

お袋と姉さんは故郷の墓に2人で入っています。お墓参りのときは「これまで育ててもらってありがとう」という言葉をかけています。もう感謝しかないからね。2人には本当に苦労をかけたから、自分もそこに一緒に眠りたいなとは思っていますよ。

 

山本:とても心に響くお話です。師匠のような方がいるおかげで落語界も新しい風が生まれますから、まだまだお元気で活躍されることを祈っております。さて、師匠は落語に限らずいろいろなことを見聞きされているんでしょうね。

 

ヨネスケ氏:そう、僕はとくに野球と相撲が大好きで、今年もメジャーリーグの試合を観戦してきて、ついにアメリカの全チーム30球場をすべて制覇しました。全制覇に40年かかりましたけど。今年に最後の球場に行きましたが、最後はやはりワシントンと決めていました。ナショナルズの本拠地ナショナルズ・パークです。

トロント・ブルージェイズのロジャーズ・センター、シンシナティ・レッズのグレート・アメリカン・ボール・パークと行って、最後にワシントン。最後にワシントンにしたのは天然の球場だからね。いまアメリカでは開閉式屋根の球場を壊していて、ドーム型の球場もフロリダ州レイズのトロピカーナ・フィールド1つだけしかない。そもそも野球って太陽の下でやるものだから、あの解放感がたまらない。メジャー観戦に行った人がよく言うのは「日本のドーム球場は嫌だ」って。それはそうですよ。だからアメリカは球場をボール・パークって言うんですから。

とにかくみんな楽しんでくださいよってスタンスなんです。だから、寄席に来たって、つまらなきゃトイレ行ってまた戻って来ればいいし、寝ていたっていいんです。いろんな個性が聞けるっていうのが寄席なんですよ。

 

山本:全球場制覇とはすごいですね。私はまだアメリカの球場に足を運んだことはありませんが、甲子園球場などはやはり解放感が一番ですよね。

さて最後になりますが、師匠は75歳になられてもまだまだ現役でご活躍中です。そんな師匠がいま、ご自身の生活ではどのように過ごされているんでしょうか。

 

ヨネスケ氏:今度、引っ越しをしますよ。いまは新宿に近い都会に住んでいるんですが、75歳を機に都会から少し離れた場所に越そうと思っています。

そこだと、夏ですと蛍が飛んでいたり、小川にメダカが泳いでいたり、春にはいたるところに桜が咲いたりと自然や緑が豊かな場所です。畑もあって大家さんに頼むと畑も貸してくれるそうだから、残りの人生をそこで過ごそうかなと思っているんですよ。けっして都会が悪いってわけではないんだけれど、昨日も郵便局に手紙を出しに行ったら、みんなビルと道路だし、全然風情なんてないなと思って。

最初にも、いまは人情も薄くなって風情もなくなったという話をしましたが、引っ越し先の駅に降りると、坂があって有名な女子大学があって、そこを越えると小川や畑が見えてくる。人の付き合いも残っていそうで、あの『突撃! 隣の晩ごはん』で全国各地を回ったあの風景も感じられるんじゃないかなと思っています。そこから新宿までは電車1本で行けるし、寄席にも行けるからね。

ちょっと心落ち着いた場所で余生は過ごそうかなと思っていますよ。

 

山本:そんな田園風景が残されているところが意外に近くにあるんですね。まだ寄席にも上がるということですから、さらに深みのある噺が聞けそうですね。本日はありがとうございました。