著名人との対談

VOL.56

森達也氏×山本一郎

映画『福田村事件』の監督が見続ける“生と死”の人間ドラマ

森達也氏×山本一郎

対談相手のご紹介

森達也氏×山本一郎

映画監督・作家

森 達也

Tatsuya Mori

映画監督・作家。1956510日生まれ、広島県出身。

1998年にオウム真理教の現役信者をモデルにした自主制作ドキュメンタリー映画「A」を公開。ベルリン映画祭へ正式招待され、海外でも高く評価された。3年後の2001年に映画「A2」を公開し、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞した。

著者として、「A3」、「下山事件」、「すべての戦争は自衛意識から始まる」などが多数存在する。

対談の様子

山本:森さんがこれまで扱ってきた題材テーマというのは、下山事件(下山ケース)、従軍慰安婦、オウム真理教、神戸連続児童殺人事件と本当に社会を揺るがしたものばかりです。

そして、このたびの映画は『福田村事件』という、いまから約100年前の事件を題材にされたのですが、ほとんどの日本人が知らない事件です。

 

森氏:そうですね。発端は192391日に起こった関東大震災で社会不安と恐怖を刺激されて、在日朝鮮人が日本人に報復するのではないかという疑心暗鬼が高まり、そこに流言蜚語が重なって関東各地で朝鮮人虐殺がありました。

福田村事件は、当時の福田村、いまの千葉県野田市の北東部に15人の行商団がたまたまやって来て、福田村の自警団と村人たちに襲撃され9人が殺害された事件です。そのうちの1人は妊婦で、子どもも2人いました。

どうして事件が起こったのかについてはいくつか仮説はありますが、行商団は香川県から来た一団で、おそらく日本語のイントネーションが違う地方の方言だったので、それが朝鮮人の言葉だと思って殺してしまったという説です。

この事件がなぜ誰にも知られず闇に葬られてしまったかというと、殺された側が沈黙してしまったからです。普通は殺した側が沈黙するのですが、この事件の特色としては殺された側も沈黙してしまった。だから、まったく知られることがなかったのです。

なぜ沈黙してしまったかというのは、彼らが差別部落の出身であった、いってみれば近代の日本の歪みが2つ存在していたからです。つまり、朝鮮人差別と部落差別という2つの歪みが重なって起きた事件だということです。

では、なぜこの事件を私が映画にしたかということですが、実はオウム真理教のドキュメンタリーを撮ったときから始まっています。

 

山本:オウム真理教ですか。福田村事件とオウム真理教はいっけんするとつながりが見えませんが、それは非常に興味があります。

 

森氏:当時驚いたのは、最初にオウムの施設に入って撮影を開始したときです。彼らの施設はサティアンと呼ばれるところで、そこにいた信者たちはみんなとても穏やかで純真で善良でした。でも、同時にこういう人たちが凶悪な事件を起こしたのも事実で、なかなかそれが自分の中でうまく咀嚼できませんでした。

そのことをずっと考え続けたとき、おそらく人間というのは1人ひとりは善良で穏やかであるのに、集団になったときにそこで何かのスイッチが入ったとたん、とてつもないことをやってしまう生き物だと思ったのです。

考えてみたら戦争や虐殺が世界中で起きていますが、どれもそうです。そもそも冷酷で残虐な人ばかりが戦争をやっているわけじゃない。正しいか分かりませんが、そこには一般の人たちも巻き込まれて、そうした状況になってしまう。

だから、人間が集団と化したとき何が起こっているのか、そうした歴史を知ることは大切だと思ったのです。しかし、日本の場合はこういったことを映画にしようとしません。であれば、自分たちでやるしかないなということでメガホンを取りました。

だから、この映画はいってみればインディーズ、自主制作映画なんですよ。大手の配給会社はどこも手を挙げないので、自分たちができる範囲でやってみたら意外や予想以上にヒットしたのでびっくりしています。

 

山本:森さんのお話をうかがってオウムの事件がつながりました。というのも、映画『福田村事件』の公式サイトで監督のメッセージを拝見したのですが、このようにおっしゃっています。「特に不安や恐怖を感じたとき、群れは同質であることを求めながら、異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする」と。森さんは、集団化によって人間が変わってしまうということを根底にとらえていると。

 

森氏:人間が群れることは仕方なく当然な成り行きです。なぜなら、人間は弱い生き物で1人では生きていけない。だから私たちは群れ、言いかえれば集団や組織、共同体といったものに帰属しないで生きていくことなんてできないし、誰もが仲間を求めている。これはもう本能と言っていいかもしれません。

ただ、そうした群れには副作用がある。それは「みんなで同じように動こうとする」ということです。イワシとかサンマといった魚からヒツジといった哺乳類までたくさんの群れる生き物がいますが、みな共通していることは「弱いがゆえに、みんなで同じように動くこと」です。

だから人間の場合、群れにいれば同調圧力がどんどん強くなってしまう。そうなると、「なぜ自分はいま走っているのか、なぜこちらに向かっているのか、そうしたことは分らないけど、周りがみんなそうしているから自分もそうしよう」という状況になってしまう。結果として大きな間違いを起こしてしまうのです。

だから、人類の大きな失敗というのは、群れという普遍的な現象が存在していて、それが過ちを繰り返す。だけれども、過去の自分たちの歴史を知れば少しはそれが軽減できるのではないか思っています。

 

山本:集団が過ちを犯すというのはたしかに枚挙にいとまがありませんね。卑近な例ですと自民党と旧統一教会、大手マスコミと旧ジャニーズ性加害問題、自民党の裏金問題など、結局は集団が犯してきたことです。

 

森氏:まさしくその通りです。そういった問題には共通点があって、1つは「何十年も前からあったこと」で、もう1つは「メディアの多くの人はなんとなく知っていたこと」です。でも、誰もこれらをニュースにしようとしなかった。旧ジャニーズの場合はBBCがドキュメンタリーをつくったこと、旧統一協会の問題は安倍元首相が暗殺されたこと、自民党の裏金問題は赤旗がスクープしたことです。

どの事件も記者クラブに入れないマスコミが糾弾して世に明るみに出たわけです。記者クラブでは、周りの記者やディレクターの同調圧力があって、なんとなく自分をならしてしまう。でも、記者クラブに入れないマスコミだからこそ独自な見解意識を持てるわけです。人間はつくづくそういう生き物なんだと感じます。

 

山本:集団になったとたん同調圧力に屈してしまうのはマスコミにかぎらず、どんな世界、どんな社会にも存在しますよね。でも、正義を是とするマスコミまでも集団の論理が働いてしまうのはすべてが不信へとつながってしまいます。結局、彼らも事件に加担していると言ってもいいくらいです。

 

森氏:だからこそ加害性を見つめることが大切だと思います。たとえば、私たちメディア業界では「8月ジャーナリズム」というのですが、毎年8月になるとテレビでも戦争ものの番組すごく増えますよね。それは日本にとって8月は戦争のメモリアルだからです。6日は広島、9日は長崎、そして15日は終戦です。

でも、これが間違いだと思っているんです。つまり、「自分たちはこんなひどい目にあった」「これでやっと戦争が終わった」という被害者側からのメモリアルです。

同じ敗戦国のドイツは逆です。ドイツの国民的なメモリアルは2つあって、1つは1月27日、もう1つは1月30日です。何の日かというと、27日はアウシュビッツ強制収容所が解放された日、30日はヒトラーが組閣した日です。

つまり、2つのメモリアルは「なぜ自分たちはユダヤ人を迫害、殺りくしてしまったのか」「なぜ自分たちはナチスを支持してしまったのか」という加害性からのメモリアルなんです。

これは日本と真逆です。ドイツ人は戦後も加害者の立場を忘れることなく、メモリアルとしてそれを考えざるを得ないのです。日本の場合は、「なぜこんなひどい目にあったのか」ということと、戦争が終わった日を基点にしてしまったので復興がその後の物語となってしまいました。

だから、戦後の政治も教育も行政もメディアも、もちろん映画もすべてそこに乗っかってしまった。まずはそこから壊していかなければダメだと思っています。

安倍元首相が戦後70年の談話で「私たちの子どもや孫にいつまで謝罪させなければいけないんですか」と言って多くの日本人が拍手喝采しましたが、あのとき私は微妙に違うなと感じました。韓国も中国も日本に謝れではなくて忘れるなということを求めているのではないかと思ったからです。

 

山本:いまの日本は自虐史観から脱却しようとする流れで、たとえば、近年にあった嫌韓などはSNSがヘイトスピーチにあふれました。いっぽうで、韓国人は豊臣秀吉の時代からの恨みもあって、京都には耳塚が残っているくらいです。

 

森氏:戦後日本の加害者意識の薄れは、おそらく明治時代からの失敗だと思います。要するに、アジアに対して優越感を持つことを自分たちのアイデンティティにしてしまったからです。鎖国を解いて周りを見渡したら、アジアほとんどが欧米列強の植民地になっていて、日本だけはなんとかして独立国家を目指そうと「脱亜入欧」をスローガンに掲げた。でも、この言葉の意味をよくよく考えてみると、アジアを出てヨーロッパに入る、つまりほかのアジアの国は日本の下の位置にくるわけです。

だから戦争で負けても、今度は経済でアジアのナンバーワンになって変わらない優越感が続いたのです。

それがいまは、経済で中国に抜かれ、韓国もすぐ後ろにいるといった状況になって、今度は焦りでしょうか、そうしたものが前面に出てヘイトスピーチなどがと大きくなってきていると思います。

 

山本:まさに日本という集団が変貌してしまった姿ですね。国という集団が過ちを犯してしまう場合はほとんどが戦争という形に変わっていきます。その大きな要因を森さんは何だと思われますか。

 

森氏:人間は肌の色の違いなどさまざまな要因はありますが、そもそも個々の考え方が違うだけです。それで戦争はなぜ起こるかというと、もともとは国民を食わせるために土地の奪い合いが起こります。でも、イスラエルとパレスチナの紛争は、イスラエルの国民を食わせるために攻撃しているのではなく宗教的な問題です。

私は大学でも教えていますが、学生に「イエス・キリストの宗教は何ですか」と聞いたことがあります。すると、だいたいの学生がきょとんとして、「えっ、キリスト教じゃないんですか」と答えるんです。でも、イエスはユダヤ教です。ここが分からないといまの世界が見えなくなるのです。

つまり、イエスは敬虔なユダヤ教徒で、ユダヤ教の内部改革をしようとして旧勢力から妬まれて処刑されたわけです。その後にイエスの弟子たちが布教して、ついにはローマ帝国が国教にまでしました。これが西洋社会の1つのスンタダードになるわけですが、キリスト教徒からすればユダヤ人は自分たちのイエスを殺した人たちです。実際はイエスもユダヤ人なんですが、そこが抜けてしまう。だからユダヤ人といったらもう不倶戴天の敵であると。

結局、ホロコーストが発覚してから西側世界は萎縮してしまいます。自分たちも加害者であって差別に加担していたからです。だからイスラエルに介入しづらいし、イスラエルも好き放題にガザ地区に入植しているわけです。

ですから宗教は重要で、世界史を考えるうえでも現在の世界情勢を考えるうえでも抜きにはできません。日本人は宗教音痴というか、オウム事件なども影響してアレルギーがあるのか、これは不幸なことだなと思います。

 

山本:日本人は宗教というとあまり意識しないというか……。私が「クリスマス・イヴは何か知っている?」と訊くと、ほとんどの人が「前夜祭」と答えます。でも、なぜ前夜祭なのかという意味は分かっていません。そこで「ユダヤ人は日没から日没が1日。24日の日が暮れてから25日の日没までが1日だからイヴがイエスの誕生を祝う日になる」と教えるときょとんとして聞いています。

日本の宗教といえば仏教と神道がそれに当たりますが、私たちの祖父世代以前は、家庭はお寺、地域は神社という両立ができていて、日本人はこの2つを大切にしてきました。しかし、戦後になって地方から都会へと人が流出してからはその関係性が希薄になってしまいました。過疎地ではお寺と神社が生存できない状況で、日本の宗教がおかしくなってきたのは事実です。

 

森氏:たしかにそうですね。地縁共同体というのは、言い換えれば宗教共同体でもあるわけですから。だから、それが薄れてしまうと地縁も薄れるのは当然のことですよね。

私がオウム真理教のドキュメンタリーを撮ったとき、ずっと宗教とは何だろうかということを考えていました。そこで1つヒントがあって、オウムの施設のあちらこちらに標語が貼ってあったんです。麻原の言葉なのか分かりませんが、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ」という標語でした。

私はその標語の意味をずっと考えていて、宗教というのは“貧困と病老死”だということに行き着いたのです。それは、なぜ人は宗教を持つのかという答えでもありました。

ここからは私の解釈ですが、おそらく人間は自分が死ぬということを知ってしまったからなのではないかと思います。動物は他者が死ぬことは分かっていても、それを自分のこととしてとらえることはできません。でも、人間はいつか絶対に死ぬということを知ってしまった。それは絶望であり、矛盾であり、恐怖であったに違いありません。

そこで宗教が不安や恐怖を緩和する装置として生まれた。世界中にはいろいろな宗教がありますが、共通していることはすべて死後の世界を説いているということです。魂というのか、輪廻転生であったり浄土であったり天国であったり……。言い方は宗派によって違いますが、必ず死後の世界を担保しています。

ただ本来の仏教は違います。実は仏陀は死後のことはいっさい触れていません。あれは弟子たちがつくったというか、死後を説かないと布教ができないですから現在の仏教の形になってはいます。いずれにしても宗教として形を成すためには死後の世界については言及しないわけにはいかない大原則があると思います。

 

山本:宗教が死後の世界を説くのは、やはり人間が最も畏怖の念を持ったのが“死”だからと思います。時の権力者は不老不死を求めてきましたが、これはかなわないわけですから。人は死ぬと埋葬されます。やはり死者に対する畏怖の念から魂を封じ込めることから始まったとされます。お墓の始まりに関してはさまざまありますが、森さんはお墓に関してはどういう考えをお持ちですか。

 

森氏:お墓に関しては月並みのことしか言えませんが、仏壇も含めて、残された人間のためにあるものだと思っています。人は死んだら消えてしまうと思っていないので、お墓というのは生きている人間にとっての必需品というか、必要なものだと思います。

やはり死んだ人を思い出さなければならないし、実際に拝むことでそれが成されることを考えると、お墓や仏壇は大事なアイテムと言っていいのかもしれません。アイテムという表現が正しいのかは分かりませんが、テレビであったりパソコンであったりと、それらと同じような意味での欠かせないものだと思っています。

たとえば、お盆にお墓参りに行くというときに、朝起きて支度をして、お線香を用意して、途中でお花を買ってというように参るためにある存在で、墓前では線香に火つけて、花差しに花を活けて、線香の匂いをかぐ。ふと空を見上げたら真っ青な空で、「ああ、じいちゃんがどこかにいるかな」と思い出す。これって生きているからこそできることです。

宗教学者の島田裕巳さんは、お墓はいらないという本を出してベストセラーになりましたが、死者にとってのお墓はいらないと思います。でも生きている私たちが必要なものなのだと思うのです。

 

山本:私もそう思います。死んだ人を思い出すということは生きている人の役目で、死という意味はそこにあるのかもしれません。さて、宗教の話からオウム事件、お墓の話まで“死”という話をうかがってきました。もう少し掘り下げておうかがいしますが、森さんがこれまで数多くのドキュメンタリーを通して生と死をどのように考えてこられたのでしょうか。

 

森氏:映画『福田村事件』では、ラストシーンで死んだ人の名前を言わせています。在日朝鮮人の飴売りの少女が殺される直前に、「私の名前は……」と意識的に入れました。これは死んでいく人それぞれにちゃんとした名前があり、その人の生活があり、愛する人や愛されている人が当たり前に存在する。

たとえば、ガザ地区で2万人を超えた死者にも1人ひとり名前があり生活があったにもかかわらず、ただの数量のような記号になってしまう。私はこれが嫌だったので、たとえ数として死が伝えられても、そこには1人ひとりの人間が存在したんだという事実を忘れてはいけないと思っています。そして、私たちがそういった意識をどうやったら持てるのだろうかということをずっと考えてきました。

だから、映画のなかではそうした意識も含めて名前を言わせたのですが、これは加害者側も同じです。共謀して冷酷に笑いながら人を殺しているやつなんていないですから。

だからこそ、生と死、とくに死というものに思いを馳せるような、そんな作品を描いていければと思っています。

 

山本:では、これからも集団が犯してしまう狂気というか、そこに存在する“死”というテーマを追い求めていかれるのでしょうか。

 

森氏:実はもうここらへんでいいかなと思っているんです。『福田村事件』で気が済んだかなという気持ちもあります。なにせ20年、ずっと考えてきたことなので。だから「次の映画はなんですか」と聞かれるのですが、最近はホラー映画を撮りますと言っていますよ。みんな冗談だと思っていますが、私はけっこう本気で言っているつもりなんですが。

それで、ジャパニーズホラー的なものがつくれないかと思っています。押し入れからギギギーと出てくるような日本の古典的な怪談ものではなくて、もう少し知的なホラー、たとえば、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』のようなゾクゾクする怖さみたいなものが日本でできないかなと考えています。

実はホラー映画というのは映画の王道で、いろいろな創意工夫もできるので、たぶん撮っていて一番楽しいんじゃないかなと思っていて、1回くらいやってみたいなと試んでいます。

 

山本:ホラー映画ですか。それは面白い。私が子どもの頃に見たアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の話で忘れられないストーリーがあります。

鬼太郎が桃源郷に迷い込んでしまうのですが、そこには子どもたちがたくさんいて楽しそうに遊んでいるんです。ただ、鬼太郎が話しかけると会話がまったくかみ合わない。太閤秀吉の頃の話をしていたりと、どうもその桃源郷は400年前の子どもたちが妖怪によって連れて来られたことがわかり、その妖怪を鬼太郎が退治する。そして、助けた子どもを村に帰すのですが、子どもたちが村に着いたとたん全員が急に立ち止まって白骨化していなくなるという話です。

結局、浦島太郎と同じ話なんですが、子どもの頃に衝撃を受けました。最後は目玉おやじが「おまえがやったことは正しいのだから、くよくよするな」と鬼太郎をいさめて終わるのですが、桃源郷にいれば楽しかった子どもたちを連れて帰ってしまったばかりに死んでしまった。これには強烈なメッセージ性がありました。そう考えるとオカルトチックなもので、何か考えさせられるというものも面白いですね。

 

森氏:そうですね。単に恐いだけで終わるのはさすがに少しもの足りないかもしれませんね。私の付き合いがある超能力者の1人でAさんという人がいます。彼は霊視ができるのですが一緒に夜の新宿の街を歩いていて、「森さん、お化けが恐いんですか」と訊くんです。「いや、お化けは恐いでしょう」って答えたら、「だって、もとは生きていた人ですよ。別に死んだ瞬間に凶暴になるわけではないんですから。ただ、もちろん中には危ない人もいるけど、それは別に現世も来世も同じだし、だからそんなに恐がる必要ないですよ」と言われたことがあります。

たしかに言われてみれば、そうだなとは思いますが、いま幽霊がここに来たら恐いですよね。私の撮りたいホラー映画って、生きている人間のうほうが恐かったなんていう安易なオチじゃなくて、やっぱり最終的にはお化けのほうが恐かったというオチがいいですね。

とにかくホラー映画は意外と奥が深いですよ。考えているうちに、なんだか楽しくなってきますね。

 

山本:こと映画の話題になると話が尽きません。私も映画は大好きで、気になったら必ず映画館に行くほど映画好きです。ですから、森さんのホラー作品を心待ちにしております。本日はありがとうございました。