著名人との対談

VOL.52

渡部陽一 氏×山本一郎

戦争の犠牲者はいつも子どもたち。写真に込める本当の思い。

渡部陽一 氏×山本一郎

対談相手のご紹介

渡部陽一 氏×山本一郎

戦場カメラマン

渡部 陽一

Yoichi Watanabe

戦場カメラマン。197291日生まれ、静岡県出身。大学1年のときにピクミー族に会いたいという想いでアフリカのザイールに向かい、現地での遭遇した少年ゲリラ兵からの襲撃をきっかけに、戦場での撮影取材を行うことを志す。これまでの主な取材地はイラク戦争のほかルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、コロンビア左翼ゲリラ解放戦線、スーダン、ダルフール紛争、パレスティナ紛争など。現在はカメラマンだけでなく、フォトジャーナリスト、タレント・初代富士市観光親善大使としても活躍。

対談の様子

山本:命を顧みず、戦場で写真を撮り続ける戦場カメラマンという仕事は、私たちには想像もつきません。そんな戦場カメラマンとしてさまざま戦場へ行かれている渡部さんですが、やはり最初にウクライナでのお話をうかがわないわけにはいきません。渡部さんは何度もウクライナへ向かわれていますが、今回はどのくらい行かれていたのですか。

 

渡部:今回はだいたい10日間くらいですね。今年(2022年)の9月に陸路でポーランドからウクライナ国境まで行き、そこから電車で首都キーウへ行きました。キーウからは車に切り替えて自由に動いていくような状態でした。

ロシアがウクライナへの侵略戦争を始めたのが、2022年2月24日ですから、もうすぐ1年近くになります。当時のウクライナでは、ロシア軍によって一般市民の住居が破壊され、燃やされ、街は廃墟と化していました。

とくに、首都キーウ近郊の町、イルピン、ブチャ、ホストメリは、ロシア軍による大量虐殺が行われた最前線、まさにジェノサイド(国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊すること)が起こった場所です。そこでは、市民は避難するために、家族たち、おじいちゃんやおばあちゃん、子どもたちが乗った車が列をなして逃げ惑う中、ロシア軍によって蜂の巣のように襲撃され殺されました。

この一帯は、キーウからわずか30キロです。ロシア軍は隣の国ベラルーシの国境から一気にキーウを陥落させようとしていました。キーウを陥落させればウクライナは堕ちるということで、距離にして100キロのところにあるキーウへ19万人という規模で侵攻したのです。

そこでまずベラルーシ国境から70キロ地点にあるイルピン、ブチャ、ホストメリという三角地帯を取り囲みました。ブチャではロシア軍が入ってくるということで、市民が逃げようとしました。しかし、ロシア軍が猛烈な速さで街を取り囲み、キーウに入る唯一の幹線道路に市民が向ったところをバーッと一斉掃射。だから、逃げる乗用車やバスをロシアの装甲車が無差別殺りくしたのです。避難している一般市民だとわかっていて撃ったということです。

街の拠点となる場所は、集合住宅が破壊されるだけではなく、見せしめのようにあえて建物を燃やして破壊し、なんと遺体までも放置されました。われわれロシア軍に抵抗する者はこうなると見せつけていた状況が、キーウから30キロのイルピン、ブチャ、ホストメリで行われていたのです。30キロといえば、東京の品川から渋谷、池袋の北側くらいまでの距離ですよ。

 

山本:そんな近くで殺りくが行われていたとは、ウクライナはまさに危機的状況だったのですね。日本のニュースでは、無差別殺りくの現実までは報道されていませんが、渡部さんのお話を聞くと、まさに凄惨な光景が目に浮かびます。

渡部さんは2014年からずっと、ウクライナを取材し続けていますね。当時から、これほどひどい戦争になることは予測されていたのですか。

 

渡部:僕はこれまでに9回、ウクライナを取材していますが、僕が2014年の段階からウクライナに入ったときは、ウクライナ内戦と呼ばれていて、いまのこのロシアの実行支配地域を取るためにロシア軍が攻撃を仕掛けていたときです。それに対して、ウクライナ軍も激しく抵抗して犠牲者が最も出た時期ではあるのですが、ロシアが核兵器を脅しに使って侵略戦争を起こすというのは、当時の取材の中ではないだろうと踏んでいました。

ロシア軍が侵略戦争を起こす前は、アメリカのオバマ大統領であったりトランプ大統領であったり、ヨーロッパの欧州連合(EU)も比較的強じんな連合体をつくっていたので、ロシアに対して外交圧力で止めることができた時代でした。国際社会のパワー・バランスが保たれていたのです。

でも、アメリカはトランプ政権が崩壊してバイデン政権になり、戦略目的が対中国に切り替わってしまい、ロシアに対する国際安全保障の力というものがかなり落ちてしまいました。ヨーロッパも経済的に政権が不安定で、とくにイギリスがEUから離脱し、ほかのヨーロッパの指導者も次々と替わって、どの国も不安定になったんですね。

こうした状況でも、ロシアは蚊帳の外に置かれていました。エネルギー戦略でも経済制裁でも、どちらかというと悪の枢軸国のように孤立させられてきた中で、かつてのソ連時代の強いロシア、強いソ連を見せるために、石油・天然ガスというエネルギーを武器にウクライナを堕とせるだろうと判断したのではないかと感じています。

世界的に経済のバランスが弱くなると政権の基盤が弱くなってくるので、国民の中でも格差社会が生まれ、内紛のように持つ者、持たざる者の争いや衝突が起こります。そうなると、やはり強権国家にとっては力で押さえ込めるので有利に働きます。だから、ロシアがウクライナを堕とせるとプーチン大統領は判断したのだと思います。ロシアにとっては、苦しいけれどもやりやすいシナリオであったかもしれません。ただ僕自身、ウクライナの東南部地域の侵攻で終わるだろうと思っていました。

 

山本:国際社会や経済のパワー・バランスの変化から、持つ者、持たざる者の争いで戦争が起こる。人間のさがなのかもしれません。そんな世界の中で、現地のありさまを伝える戦場カメラマンという仕事はなくてはならない存在です。

渡部さんはそもそも、どうして戦場カメラマンになろうと思ったのですか。

 

渡部:僕が戦場カメラマンになろうと思った柱となる体験があります。それは僕がまだ学生だったときに、ある授業で先生がアフリカ中央部のジャングルに暮らしている狩猟民族ムブティ族という人たちがいることを知ったときです。授業を聞いていて、もうワクワク、ドキドキしてしまい、ムブティ族にぜひ会ってみたいと思ったのです。そこでアルバイトをして貯めていたお金で格安航空券を購入して、バックパッカーとしてすぐジャングルへと、ムブティ族に会いに行ったんですね。

当時、その国はザイールという、いまはコンゴ民主共和国という国です。隣にはルワンダという国があり、内戦が繰り広げられていました。その内戦がザイールに飛び火していて、僕が入っていったジャングルのそれぞれの集落が兵士たちに襲撃を受けていて、たくさんの子どもたちが犠牲になっていたんです。

そんな子どもたちは、泣きながら僕に助けを求めてきました。でも、僕はまだ学生で、たんなる旅行者にすぎません。結局、助け出すことができなかった。そのときに自分ができることはないかと考えたとき、子どものときから大好きだったカメラを使えば、泣いている子どもたちの状況を記録に残して、たくさんの人にこんな状況を知ってもらえば、泣いている子どもたちが少しでもなくなっていくきっかけになるのではないかと思ったんです。そんな仕事って何だろうと思ったときに、戦場カメラマンになるという自分自身の鉄の柱ができましたね。

とはいえ、戦場カメラマンになるといっても、撮った写真をどのようにメディアに発表したらいいのかもまったくわかりませんでした。それでも戦場に行って、撮っては帰り、撮っては帰り、新聞や雑誌の編集部に電話して、「アフリカのルワンダで泣いている子どもたちの写真を見てください。アフリカの現状を見てください」と訴え続けていました。

そんな日々がずっと続いたのですが、写真にストーリーを付けたり、いろいろな写真を組み合わせてバックストーリーがわかるようにするなど、戦場で出会った世界中のカメラマンたちに教わって、12年経って初めて『サンデー毎日』にソマリアで泣いている子どもたちの写真をグラビアで届けることができました。気づいたら、戦場カメラマンになると決意してから30歳を過ぎていました。もちろん当時の気持ちを、変わらずに、いまもコツコツ打ち込んでいます。

 

山本:学生のときに子どもたちに出会って、渡部さんの人生が決定づけられた。そして、その思いはいまも変わらない。本当にすごいことです。渡部さんがずっと伝え続けている「戦争の犠牲者はいつも子どもたち」という言葉は、まさに渡部さんの人生のテーマそのものです。

 

渡部:そのとおりです。ウクライナでも残虐な報復が繰り返されていますが、どの戦争においても変わらなかったこと、それは「戦争の犠牲者はいつも子どもたち」ということでした。僕は常に、戦時下に置かれている家族の状況、暮らし、子どもたちの現状、彼らの思いというものを取材の柱に必ず置いています。

僕が戦場で紛争地の子どもたちを撮っていると、悲しい状況の中でもちょっとしたやりたいことができたとき、たとえば1日に1回の食事を食べることができたとき、薬が1つ手に入ったとき、子どもたちやその家族に一瞬だけでも軟らかい笑顔が出たりすることもある。そんな家族や友人が近くにいる日常というものは、日本で暮らしている私たちの家族、お父さんお母さんが子どもたちに対する思いや愛情と変わりません。

戦場に行って一番驚いたことは、戦場で暮らしている家族の日常というものも、朝起きて限られたご飯を食べたり、お父さんやお母さんが仕事に行ったり、夜に自家発電を起こしてテレビ見たり、みんなで川の字になって寝たり、休日にみんなでお茶を飲んだりと、戦場の家族の日常も日本の私たちの日常も変わらない。僕は「あっ、同じなんだ」とハッとさせられました。

ウクライナでもそうでした。これまで闘いを持ちこたえることができた最大の力というのは、寛容な気持ち、困っている人がいたら寄り添う気持ち、何かできることがあったらワンステップ踏み込んでいく力です。

いつでも家族、友だち、子どもたちが一緒にいる。たとえ家族がバラバラになっても、少しでも状況がよくなればすぐに戻って来て、困っている人を助け、近所の人たちと戦争に対して連帯をしていく。ウクライナが本当に強いのは、そこで暮らしているウクライナ国民が、柔らかく優しく、しなやかな強い力を持っている国民性なのだと感じています。

実際に、ウクライナの人は日本人にもほかの外国人にもとてもオープンで優しい人たちです。

ウクライナから避難して日本に来ている方と触れ合った日本人も、言葉には出さなくても、彼らの柔らかさや暖か味、そしてよく笑う国民性を感じていると思いますよ。

 

山本:戦争というものがなければ家族と一緒に幸せに生きていける。ウクライナの人に限らず、優しい人たちは世界中にいると思います。渡部さんは戦場の中の家族、そこで暮らす子どもたちと一緒に生活をされてきたのですか。

 

渡部:取材ではありますが、本当に家族のように暮らしていました。イラク戦争で現地を取材していたとき、イラクの家族と一緒に暮らしていたことがあります。

イラクの家はみんな砂漠の中にある大きな家です。そこであまりに一緒に暮らしているので、家族のむき出しの日常が丸出しで出てくるんですね。お母さんが怒鳴り散らして泣いたり、おじいちゃんが孫を殴ったり、それをお父さんがやめろと喧嘩になったり。

そんな家族の日常の中に、砂漠の中で暮らすため水を自家発電で引っ張ってきたり、お祭りがあってみんなで歌ったり踊ったり、外国からサーカスが来たり、結婚式や子どもたちの進学があったりと楽しいこともたくさんあります。まさにイラクの暮らしそのものです。

そんな中でも、人々の争いという問題は恐怖として存在します。イラクという国は大きくは、イスラム教のスンニ派とシリア派、クルド人がいる多様性の国家です。

その中で一番の多数派がシリア派で7割くらい、スンニ派が2割くらい、クルド人が1割くらいいます。このイラクという国は、これまでずっと2割であるスンニ派の人たちが権力を握っていて、多数派であるシリア派と少数民族のクルド人を力で押さえつけていました。その極みがサダーム・フセイン大統領です。

でも、イラク戦争でフセイン大統領が捕まって処刑されたことで、当然、選挙で政権は多数派のシリア派に切り替わったんですね。そうなると、これまでスンニ派に散々家族を殺害されてきたシリア派の人たちが報復を始めたんです。密輸で運んできた武器を取り、兵士でも政治家でもない、まったく関係ない人たちがまるでギャングのように殺害していったのです。

そういった殺害状況が迫ると何が起きるのかというと、まず、ある家族のもとへ手紙が届きます。そこには「何月何日までに、この集落から出ていくこと」と書かれていて、手紙の中にはマシンガンの弾がジャラジャラと入れられている。死の手紙、デス・レターです。

手紙が送られてきた家族は、そこを逃げるか居すわるか、それとも闘うか。いわゆる報復の連鎖です。極端な権力のバランスが崩れたとき、たとえば気に入らない上司がいたから、この場で殺してやるということが平気で起こる世界です。

そういった世界では、家族を守らなければならなくなります。ブラックマーケットに銃を買いに行くと、だいたい200USドルから300USドルで自動ハンドの銃が手に入ります。検問に引っかからないように車のいろいろなパーツの中に銃をばらして、また組み立てるのです。

銃を持ってないと家族、子どもたちが殺されるので、一般市民でも銃を持たなければ生きていけない。そういう世界こそ、実は最も恐ろしい“見えない戦場”というものなのです。

いわゆる兵士が前線で、映画のように激しくドンパチやるのではなく、本当に恐ろしいのは、実は血の報復です。誰も闘いたくないのに、娘が暴行を受けて、さらにそのあとで目の前で切り落とされたり撃ち殺されたりします。そんな状況をお父さんやお兄ちゃんが目の当たりにすると、自分が自分ではなくなってしまうのです。「もう殺してはいけない。報復してはいけない」と頭ではわかっていても、体と気持ちがバラバラに壊れてしまって狂気の世界へと陥り、本能的に報復、人を殺してしまうのです。

それは誰でもそうなります。僕の友人であるお父さんが、子どもたちを拉致されたことがありました。助けるために身代金を請求されて、お金を払って1人だけ助けることはできたのですが、ほかの兄弟は殺害されてしまいました。

僕は友人としても、父親としても、冷静な人でとてもリスペクトしていたのですが、やっぱり壊れていってしまったんです。それが戦場という日常です。

 

山本:見えない戦争の恐ろしさは日常にあるとは、まさに渡部さんでなければ知り得ない真実です。人間誰しも家族が目の前で殺されたら正気でいるほうがおかしい。家族が亡くなった悲しみに耐えられるか自信はないですね。亡くなってしまった方が悲しみとともに憎しみを抱きながら見送られていくさまを考えると、本当に切なくなります。

 

渡部:“戦場”で亡くなった方も悲しみとともに埋葬されます。その埋葬に関して一番僕が強く感じたのは、その国が支えられてきた宗教観、宗教の考え方が生きているということです。

生まれ、そして命を奪われて亡くなっていく。そのときに宗教の考え方、地域の暮らしを保ってきた数千年の歴史の中で、宗教や地域のしきたりにのっとって埋葬される。土葬にする地域もあれば、火葬にする地域もある。お墓としてしっかり未来永劫整えていくこともあれば、あえてお墓を残さずに地球上にすべてが召されていくような環境にあえて遺体を横たえておくこともある。

埋葬の仕方というのは、それぞれの国がたどってきた歴史、とくに“生きるため”にこうせざるを得なかった考え方や宗教観というものが残っていると感じます。多くの国々が、生まれ変わったあとには穏やかで平和な暮らしが送れるために、いまを大切にしていく。逆に、いまを大切にするからこそ、終わることによって、そこには生き切った命が無に帰っていく。つながっていく考え方も止まる考え方も、それぞれの暮らしを生きるためにつなげてきた思いが埋葬の仕方に出ていると感じます。

とくに戦争で命を奪われた方への埋葬は、それぞれやり方が違っていても、その地域の人たちが足を運び、手を合わせ、涙する。そして、見守っていくことを誓い、また生まれ変わってほしいということを祈っていましたね。

 

山本:そうした光景は変わらないということですね。私も世界のいろいろなお墓を見てきて、埋葬もお墓があるかないかではなく、亡くなった方への祈り、生まれ変わってほしいという願いなのかもしれないと思っています。

仏教国と言われるブータンという国では、亡くなったらすぐに火葬して、四十九日のときに骨を粉々にして、粘土に丸めて108個つくるんですね。それを木の周りや石のところに置くそうです。それは、四十九日で生まれ変わるという考え方から生まれたものです。

 

渡部:それぞれの地域のたどってきた生きるための姿勢というものが、やっぱり埋葬、お墓というものに一番はっきりと現われていると感じます。世界と比べて、日本人がお墓参りをするという気持ちは、日本が誕生してからずっと、これまでの大切な家族、地域の方々への敬意、互いに支え合ってきた力の証明だと感じます。

いままでつながってきたということは、それを大切に支えられてきた方がたくさんいて、考え方を理解して暮らしてきた方もたくさんいる。やはり伝統というものは、理論であったりデータであったり数字であったり、いろいろな検証方法があっても測れるものではありません。すべて優しくくるんでくれる、人が生きてきた大切なつながりのリスペクト、これが日本では大切に支えられてきているのだと思います。

やはり、お墓はもちろんですが、そうした家族や親族の大切なものをなかなか粗末に扱ったりすることは日常にはないので、染み込んでいる無意識の敬意というものが、根っこに核として日本人は持っていると思いますね。

 

山本:渡部さんは戦場で亡くなられた方をたくさん見てこられたと思いますが、渡部さん自身が死と隣り合わせになったこともあると思います。渡部さんが考える死とは、どのようなものとお感じになりますか。

 

渡部:命を全うする、命がなくなっていく、生きることがここで終わってしまう……。いろいろな感じ方や思いというものがあると思いますが、僕がパキスタンを取材しているとき、こういう死にざまというものがあるのかと思った出来事があります。

パキスタンはものすごく女性への人権が不安定な国です。宗教的な衝突や政治的な衝突で過激派のテロがあり、とにかく不安定な状況が続いていました。そのときに、宗教上の激しい衝突で政府軍と過激派のぶつかり合いになり、宗教上の指導者の人が信じられない行動を起こしたのです。

僕はその事件を追いかけていてその場所にいました。指導者はたくさんの支援を受けていながらも断り、そこに居続けました。そこにいたら殺害されることは100%わかっていたにもかかわらず、戦闘の前線に立っていたんです。結局、彼はそこにあえて立ち続け殺害されました。

僕はその様子を目の当たりにして、自分の意思、これまで生きてきた考え方、家族や友人のさまざまな支えやつながり、そうした思いが彼自身につながっていたのだと思わずにはいられませんでした。自分の思いをつなげて激しい戦闘が続いてきた。でも、それだからこそ彼は自分で納得をして、自分の判断で一歩を踏み込んで殺害されたのです。

僕はそんな死に対して、ゾクゾクっとした感覚を覚えました。生きていくとはどういうことなのか、自分自身で生を納得するとはどういうことなのか。何をどう判断して、どんな道を歩めばいいのか。その指導者の判断した死にざまを見たとき、僕も自分が納得したことをやろうと思ったのです。

パキスタンでの取材のときは強く揺さぶられ続けたんですけれども、しっかり自分がここにいて、自分が納得をして決断したことをやっていくことが僕の選ぶ道だと、その指導者から影響を受けました。

長生きすることも素敵です。けれども世界中の紛争地を見てきて、本当に何が起こるかわからないということを実感しています。そして、さまざまな戦争を見ていくと、偶発的な衝突が大規模な戦闘につながっていくことがほとんどで、この偶然のスイッチの積み重ねというものが戦争を引き起こします。

本当にこんな偶然、偶発的なことで戦争が起こるということに恐怖を感じます。しかし、この不安定で見えない感覚というものを戦場に行ったときに同じように感じます。命も同じなのかもしれません。偶発的なことによって導かれた戦争で命を落とす。それが何かわからないのであれば、自分が納得したことをやり切るしかない。さまざまな戦争を取材してきて、そんな思いに至りました。

 

山本:渡部さんの戦場カメラマンとして命を全うしようという強い意思を感じます。戦争の犠牲者はいつも子どもたち。その子どもたちをなくすために、ご自身が納得する人生を歩む。常に死と隣り合わせの世界で生きている方の深い言葉です。

 

渡部:実は僕には夢があります。もし地球上から争いがなくなって、戦争がないからもう戦場カメラマンはいらないとなったときは、「学校カメラマン」になることです。

これまで訪れた世界中の国の学校に足を運んで、授業風景、遊んでいる風景、友だちとの表情など、かつて戦場に生きた子どもたちの状況をもう一度記録に残していく学校カメラマンになること。これが僕の夢ですね。

ただ歴史上、争いがなくなったことは地球上にありません。でも、僕ができるスピード、ゆっくりであっても、自分のペースでコツコツと戦場の子どもたちの声をつなげていく。子どもたちの声を届けていく。そんな架け橋になる写真を撮り続けていきたいと思っています。

 

山本:本当に戦争がこの世界からなくなってほしいと願っています。学校カメラマンとして子どもたちの写真を生き生きと撮られている渡部さんの姿を見たいものです。

しかし、悲しいかな、まだまだ戦場カメラマンとしての渡部さんの活躍は続きそうですね。これからも安全第一で、この悲しい現実を多くの人に伝えていただければと思います。

本日はありがとうございました。