著名人との対談

VOL.38

井上麻矢 氏 × 山本一郎

お墓には人の死生観を変える力がある

井上麻矢 氏 × 山本一郎

対談相手のご紹介

井上麻矢 氏 × 山本一郎

劇団「こまつ座」代表取締役社長

井上 麻矢

maya inoue

■主な経歴

・1967 年

作家、劇作家の故・井上ひさしの三女として東京・柳橋に生まれる。

千葉県市川市で育ち、御茶ノ水の文化学院高等部英語科に入学。

在学中に渡仏し、パリで語学学校と陶器の絵付け学校に通う。
帰国後、スポーツニッポン新聞東京本社勤務。
二女の出産を機に退職し、母として様々な職を経験する。
その後、二期リゾートで二期倶楽部東京直営ギャラリーの企画を担当する傍ら、IFPA(英国)認定国際アロマセラピスト、フィジカルトレーナーとして活躍。
・2009 年 4月

こまつ座入社。同年7 月より支配人、同年11 月より代表取締役社長に就任。
・2014 年

市川市民芸術文化奨励賞受賞。
・2015 年

井上ひさしから語られた珠玉の言葉77 をまとめた「夜中の電話—父・井上ひさし 最後の言葉」と、自身が企画した松竹映画「母と暮せば」【第39 回日本アカデミー賞優秀作品賞受賞】の小説版「小説 母と暮せば」(山田洋次監督と共著)を連続刊行。
・2017 年 1月

東京新聞朝刊「私の東京物語」連載コラム執筆(月〜金、2 週間 全10 回)

対談の様子

山本今日はありがとうございます。

 

井上氏:こちらこそありがとうございます。光栄です。この間、もう大学を卒業するのに山本社長の霊園に行かせてもらったときに、下の娘がめちゃめちゃ反抗期だったんです。反抗期が遅くて長くて。娘はずっとスポーツをやっていましたが、引退したあたりから反抗期が始まって、未だに続いているんですよ。根本にあったのはどうやら死の恐怖らしくて。それがどうやら社長の霊園を訪れて無くなったみたいです。

 

山本:若いのに死への恐怖みたいなものがあったのですか?

 

井上氏:むしろ若い人の方が死の恐怖が強いのではないでしょうか。私ぐらいの年齢になると、向うに行ったら犬に会えるとか父にも会えるとか、色んなことを思うんですけど。若い時って、特にあの子は昔から白血病の疑いがずっと消えなくて、何かあると白血球が異常な数字になって倒れるというのを何回か繰り返していて、そのたびに白血病かもしれないと言われていました。でもあるタイミングでぽんと正常値に戻るんですよ。医師の先生もなんでだろうか、とずっとおっしゃっていました。それで恐怖感というのが他の子より多いのかもしれない。だけどこの前霊園に行かせてもらって、そういうことが無くなったんです。

 

山本:それは嬉しいですね。

 

井上氏:なんでなんですかね。お墓っていうとすごく寂しい、すごく悲しい。だけどここなら全然寂しくないかもしれない。大げさな話、死生観が変わったみたいです。本当に連れて行ってよかったです。最初は、「山本社長はあなたが会えるような人じゃないのよ」と言っていたのですが、珍しくどうしても行きたいと言ってついてきたんです。実際に死というものが身近だったものですから、本人にはストレートだったみたいです。

 

山本:そういう大きな病気があった、という背景を僕は知らなかったですね。

 

井上氏:そうですよね、そんなこと、なかなか人に話すこともなくて。これまで3回ぐらい、これは急性白血病なんじゃないかと言われていました。子供だったので私達は本人には隠していましたが、やっぱり分かるものみたいです。

 

山本:それは怖いと思いますよ。

 

井上氏:本当に、怖かったのだと思います。それで丁度お墓に行ったら、娘と同い年で21歳の方のお墓がありました。すごい感銘を受けたようで、彼女の中で想いがすごく去来して、お墓って一人の人間を変える力があるんだなって。私も目からうろこでした。

 

山本:そうですね。先ほどお墓は寂しい印象があったとおっしゃっていましたが、世の中には陰気なお墓が本当に多いです。どうしてもそういうお墓を見ると、そこに入りたくないなって思う人が、今では若い人達だけじゃなくて高齢者にも多いみたいです。

 

井上氏:それは日頃からお参りに行かれていてもですか?

 

山本:むしろお参りに行って、こういうお墓には入りたくない、と。ひとつは陰気とか、話はちょっと違いますがご主人さんと同じ墓には入りたくないとか。それは置いといて、陰気で汚くて、総じてお参りのしにくいところには行きたくないという人が増えています。

 

井上氏:私は伺ったときに、ここならずっと居たいと思いました。ここはカフェなの?と思って。特に山本社長がいつもいらっしゃる霊園は、入り口から突如現れたカフェみたいな。あ、ちょっとお茶飲んでく?って雰囲気でした。

 

山本:対談の前にお話いただきましたが、今度上演される、お父様の作品の「イーハト―ボの劇列車」という作品で、宮沢賢治さんの銀河鉄道の夜だとか、電車って死生観と繋がるんですよね。

 

井上氏:「イーハト―ボの劇列車」は、ちょうど稽古が始まったばかりですけど、「思い残し切符」というものが出てきまして。人はだれでも次の世代の人に、いわゆる近々の親戚とか子供とかではなくてもっと大きな意味で「この世にこんなものがあったらいいのに」ということをつないでいく、というお芝居です。思い残し切符というのは宮沢賢治の考えそのものらしくて、ひとりひとりの幸せが成し遂げられたからといって、それは本当の幸せとは言わないんだよ、と。人間全体が、社会全体が幸せにならないと幸せとは呼べないんだよ、ということを言ってきた人なので、そこに父のひさしはシンクロしたのだと思います。だから賢治がすごく好きでした。それに出身も東北ですし。わたしとしては賢治の本を読んでいたらあの人は宇宙人なんじゃないかと思っちゃいますけど。

 

山本:お父さんのひさし様のことを考えたら、僕らからしたら彼は天才だと思います。天才のことを僕らは逆に宇宙人とか言っちゃいますよね。ムーミンの歌とかあっこちゃんの歌とか、いまだに僕ら世代とか下の世代も知っていますからね。

 

井上氏:そうですか?山本社長でもギリギリの世代ではないですか?

 

山本:いえ、ジャストの世代ですよ。

 

井上氏:それなら良かったです。最近はもう井上ひさしなのか、靖なのか、はたまた陽水なのか全くわからない。何をした人だっけ?と言われたりするので。

 

山本:いやいや、ムーミンもあっこちゃんも、ひょっこりひょうたん島も有名でしょう。

 

井上氏:そうですね。歌を聴いて、「あ、これをつくった人なの?」っていう若い世代の方は確かに多いです。で、ひさしの顔写真をみて、ムーミンの歌を聴いて、「え、この顔で?」って言われたり、若い人はそういう捉え方をするんだな、とビックリしました。

 

山本:作家としても優秀だったので、アンテナの張り方がすごいと感じますね。

 

井上氏:そのアンテナを磨くために、一応家族の体を持っていても私が小さかった頃は、面と向かって話すことは実は少なかったんですよ。ご飯を食べるときも三方に本があるんです。父はキリスト教系の孤児院で育っていて、ごはんは一つずつ出てくるんです。だから同時にいろんなものを食べることが無くて、ご飯を食べるときはご飯の方の本を読んで、おかずを食べるときはおかずの方の本を読む、といった感じでした。それがわが家では当たり前の光景になっていました。悲しいとか、なんで私達と会話を楽しまないの、とかは一切思わなかったですね。それを見ていて、ここまで研ぎ澄まさないとやっぱりものって書けないんだな~と子供ながら感じていました。

 

山本:それがスタンダードで子供のころから育っていたらそうなりますよね。

 

井上氏:だから結婚失敗しちゃいますよね。(笑)

 

山本:そんなことはありませんよ。以前対談させていただいた和泉元彌さんは家に屏風がいっぱいあるので、なんで友達の家には屏風がないのか不思議だったみたいです。それは狂言の家だということを大きくなるまであんまり気にしていなかったのでしょうね。

 

井上氏:全く同じですね。だから逆に山本社長がどういうご家庭で育ったのか、聴いたことがなくて気になりますけど。

 

山本:僕の父親はいつも仕事終わるのが遅かったんです。それでも帰って来るまでみんなご飯を食べられなかったんですよ。8時半ぐらいからいつもたべていましたね。お腹空くじゃないですか。でも父親のおかずは一品多い、と。子供ながら不思議でした。

 

井上氏:自分の家庭ではどうなさっています?

 

山本:もう先に食べられています。待つこともなく。

 

井上氏:その方が集中してお仕事もできるし、って感じかもしれませんね。それじゃ奥様に、俺の分を一品多くしてくれとも言わないのですか?

 

山本:言わないですね。

 

井上氏:わたしなんかやっぱり昔の習慣を引きずっていて、絶対そうなりたくないとは思いながら娘を育てているんですけど、意外にそういうのも功を奏していないですね。わが家にはいろんなところに本が置いてあったんですよ。トイレとか台所とか。そういうのはいまだに変わっていないです。本が山積みになってしまうのは似ていますね。

 

山本:それがあるから発想が生まれたのでしょうね。

 

井上氏:本は買うものだと思っているので、図書館に通うよりも手元に置いておきたいんですよね。わたしの家はありとあらゆるところに本があって、娘の友達が家に来ると、「本棚買えば?」って言われるんですよ。

 

山本:本棚は良いんですけど、直してしまうと読まなくなりますよね。

 

井上氏:そうなんです。散らかっているようでも私からしたらここにこの本があるって全部分かっていて場所を分類しているので。年に1度お掃除の人が来てくれるのですが、片付けられてしまって場所が分からなくなるとすごいストレスを感じちゃって。場所を変えないでくださいっていうと、お掃除できませんって言われて、結局お金以上のものを払っている感じになっています。知らず知らずのご先祖様、父の影響は受けているってことですよね。私も歳を取ってからそういうことがよく分かるようになりました。

 

山本:お父様というのは偉大な第一人者ですよね。亡くなられても魂が作品に残っています。僕の亡くなった母親も、芸能人が亡くなった時に「この人たちは良いなあ、亡くなっても映像で思い出されて」と言っていたことが印象に残っています。

 

井上氏:思い出されるっていうのは良いことなのですね。

 

山本:それだけいっぱいこの世に残したということですから。

 

井上氏:そんなふうに思ったことなかったな。たまにお芝居の世界ってとても大変なんですよね。一つの作品を創るのに何時間も何年も費やして、私達にとって、作った作品は子供みたいなもので。この子は決して派手な子では無いけど、すごくいい子だから末永く愛してもらいたいな、とか。この子はすごく破天荒で派手だから、相応な舞台を作ってあげたいな、とか。子供と思って接しています。すごく難産で生まれて、生んでくれた親は亡くなったけれども育ての親はいっぱいいて、育ての親にすごく愛されて育った子だな。いろんなタイプの子がいるんです、作品の中に。それをその子に合った劇場で、その子に合った宣伝の仕方で育てていく、というのが私達の仕事だと思っています。特にうちは井上ひさしの作品を作る劇団なので、父の分霊というか、魂が少しずつ入っているんですよね。そういうことを想うと、父も喜んでいるだろうなと感じます。

 

山本:僕も喜んでいると思います。

 

井上氏:本当ですか。社長に言っていただくとホッとする。

 

山本:井上さんは3女でいらっしゃいますよね。それでお仕事を引き継いでおられるというのが何か意味のあることじゃないかと思います。

 

井上氏:以前は一番上の姉がずっとこまつ座に居て経理をやっていて、私は他のところに勤めていました。で、父から急に経理がいなくなったからお前やれと言われたんです。私はずっとホテルの会社で勤めていて、その仕事が大好きで辞めたくなかったので断っていました。でも父が突然お菓子をいっぱい持って会社の社長室に来て、「うちの娘が辞めないと言っているんだけど、返してくれ」って。ひどいですよね。その当時ホテルにも付加価値をつけていかないといけない、と私は会社からアロマの国際免許を取らせていただいたばかりでした。ちょうどスパとかが立ち上がっていた時だったんですよ。このスパ部門を強化しないといけないからお前やれと言われて、会社に半分出してもらって国際免許を取らせてもらったのに、それも開始してないのに会社は辞められないと。つまりまだ御恩を返せていないのでやめられませんと言っていて。そしたらかかったお金をここで全て清算する、と。そういうことでお金とお菓子を持ってきたんです。社長さんはすごく良い方で、「お菓子は社員のためにいただきます。でも、私が彼女に出したお金は次の世代に返してあげてください。」と言ってくださったそうなんですよ。そのあとに社長に呼び出されて、「あなた親孝行とかしたことないでしょ。また戻ってくれば良いから2,3年ちゃんとお手伝いしてあげなさい。」と言われて追い出されました。その時は、「すぐ戻ってきますから。」と言って、さっさと次の人を見つけて戻ってこようと思っていました。そしたら父ががんになって、当然姉が継ぐと思ったら姉と父の折り合いがすごく悪くて。逆に私はというと父と離れて仕事していたので、父というよりかは社長が言っているものと思って淡々と仕事していました。父が病で倒れて、「自分ぐらいの歳だったらガンなんてそんなに進行しないんだよ。でも命に期限がついたのは確かだから書きたいものを順番に書く。」と。今までは来た仕事順に書いていたけど。それで、沖縄と長崎を書いていない、戦争で亡くなった方たちのことを書きたい、書かなければならない、と。突然全部の仕事をキャンセルしてこの二つに専念すると言っていました。結局はガンと共存できませんでしたね。160日の闘病生活であっという間に死んでしまって。昭和一桁世代の人って我慢強いんですよね。我慢強すぎて抗がん剤も4クールやる人はいないみたいです。苦しくて、だけどもう我慢強いから4クールやって体力落として死んじゃったって言う感じでしょうね。だからその時父が命を懸けて伝えてくれたこと、160日間命を削って自分に演劇界で生きていくってことを伝えてくれていたんですよ。山本社長にお贈りした「夜中の電話」というのは私の本では無くて、父の言葉をまとめた本で、最初は出版する気は無かったんです。たまたまラジオでその話をしたら出版しろと言われて。出すものではないかもと言ったら、お世話になった画家の安野先生に、「あなただけのものにしてはいけない」って言われ、出版社まで紹介してくれたので、安野先生のお顔をつぶすわけにもいかないと思って出したんです。父が命を懸けて伝えてくれたことです。だから当初はいろんなことを言われました。姉が継ぐものだと思っていた人たちには、追い出したんじゃないかとか。実際姉とは仲も良くて全くそんなことはないというのは姉本人が1番わかっていることではあるんですけど。でもそういうのを一切言い訳したりするのは性格上好きじゃなくて、まあ仕事で返せばいいかっていうぐらいで今現在に至っています。だから山本社長みたいに一から導かれてお仕事をされている方に興味がありますし、何でその仕事なんだろうみたいなことも思います。

 

山本:僕も最初はお金が儲かるという単純なところから入って、やっているうちにはまっていったというか。

 

井上氏:はまっていく過程はどういうことがあったんですか?

 

山本:やっぱり陰気なものを作りたくないな、と。それでいい仕事だなと思ったんですよ。よく相談されることがあってですね、亡くなったら怖いわ、とか、主人が死んでどうしたらいいのかな、とか。逆に奥さんが亡くなったらご主人さんは他愛もない話をして家に帰ったら寂しいから、っていう話を聞いているうちに、お墓参りの場所が陰気で暗かったら家に帰ってもしょげてしまう。それに陰気な場所にお墓を造った人は子供さんが来ないので、行きたくないみたいな雰囲気になるんですよ。その先のお孫さんも来ない。子供さんとかお孫さんがいつでも行きたいっていう場所を作っていくとなると、霊園から創っていかないといけない。最初の牧野霊園はすべり台とかを置いて、こどもが来て遊べるようにしました。

 

井上氏:そうですね。こどもって素直だから、あそこ行って遊べるなら、と。

 

山本:これが功を奏して、最近は減りましたけど、昔はぱっとみたら10人以上が砂場で遊んでいたりしました。普通の施設だったらマクドナルドとかにもそういうのがあるじゃないですか、でもお墓にあったらどうだろうと。

 

井上氏:あの感覚ですか。山本社長の感覚って自由ですよね。物事を深く感覚で判断して、あ、砂場置こう、みたいな感じなのかしら。

 

山本:絵本なども置いたりはしているんですが、これじゃそんなに楽しくないかと思って。すべり台でも3回くらい滑ったら飽きるかなと。砂場に関しては山を作ってトンネルを作って、1時間くらいは楽しめるんじゃないかと。

 

井上氏:亡くなる方は聴覚が一番最後まで残っているものだよ、と聴いていて。うちの父が入院していた時、外国人の付き添いの方がいたんですよ。私は他で仕事をしていましたし、継母も家に帰ったりしていたので。この方が私からすると本当にがさつでした。父は音楽家を目指していたぐらい耳が良かったので、ビニールをがしゃがしゃしたりするとその時だけ顔をゆがめるんですよ。意識が混濁しているのに。父は耳が良いのでその音はやめてくれません?って言いました。そういうのを思い出すと劇場で良い音楽とか良いものを観ていただきたいです。

 

山本:本当ですね。観るっていうのは劇とかミュージカルも含めてすごく苦手だったんですよ。本当に食べず嫌いしていて。観てみると凄く良いなぁ、なぜもっと早く観なかったんだろうか?

 

井上氏:他の劇団の作品は、割と若い人に観てもらいたいと思うんです。うちとしては、もちろん若い人に観てもらいたいけど、観ても多分わからないところがあると思うんです。父の作品は人がどうやって生きてどう死ぬか。つまり死ぬのがすごい怖い人だったから、手を変え、品を変え表現している作品が多いので、60代くらいの人がようやく時間ができて初めて観るお芝居がこまつ座であってほしい、というコンセプトでわたしたちは創っているんです。若い人に来てほしいけどもそれだけじゃ他もやっているし。うちとしては60代とか50代後半、ようやく時間もお金の余裕もできて、これから夫婦で何するかってときに、じゃあまずお芝居行ってみようか?いきなりのミュージカルとかだときつい。そしたら是非こまつ座に来てほしい。そういうコンセプトですね。基本的にはこまつ座のお客さんって年齢層が高いと言われますが、若い人たちでも親がこまつ座に行ってたなと思ってもらえれば、自分が60歳になった時にちょっとこまつ座行ってみる?ってなるといいなと思って。よくもっと若い人入れないとだめじゃない?と言われるんですけど、あんまりそういう風には思わないです。もちろん来てくれたら嬉しいですけどね。うちは学生演劇、学生の団体さんにはいっぱい来てもらっているんです。100人いたら結構寝ていますけど、でもその中で数人だけ一生懸命観て席も立たないで感動してくれる子もいるんです。そんな数人がいつかねずみ算式に増えて行けば演劇は無くならないと信じています。その数人に向けて創っていかないといけないですね。若い人たちはそうやって育てて、観に来てくれる習慣を維持して、それでもやっぱり60代から死、次のステップに向けて考えることになったらなと。特に宮沢賢治なんかはそうですけどね。これがあれば、といいながら挫折して、すごい弱い人だった。自分は大地主、高利貸しの息子だし。そういう高利貸しのところにお金を借りに来る人達のことをよく見ていた人。でも自分は身体が弱くて、本当は農民になりたかったけどなれなくて。でもみんなが集まれる広場があったら良かった。という思い残し切符を遺してこの世を去った人でもあるから。イーハトーボの劇列車では、たぶん井上ひさしはそこを書きたかったのかな。そういうのってすごく共通点があるなと思うんですよね。

 

山本:才能があるけど早く死んでしまいましたからね。

 

井上氏:才能がある方はあまり長生きされないですよね。父にもこの人が乗り越えられた死というものは、弱虫の自分でもきっと乗り越えられるだろう、という思いがどこかにあったみたいです。よく私に電話で言っていました。「死っていうのは予行練習ができないんだよ」と。「よくみんな臨死体験したとか言うけれど、あれは死んでないじゃないか」と。「本当に死ぬっていうことはどういうことなのか、死んでしまうとそれを伝えることはできないんだよね。でもあんな弱虫な人も乗り越えられたんだし、こんな小さな子だってたった1人でいくから、きっと僕にも乗り越えられると思うんだ」と、私にはすごく言っていたんです。でもなんと答えていいのか私にはわからなかったので。パパ大丈夫だよ、沢山の人があなたのお芝居を観て感動したり、人生が変わったと言ってくれたり、勇気をもらって劇場を後にしているんだから、きっとパパはそういう人に守られるよ、と言い続けました。そしたら、そうだねと。そのたびに自分に言い聞かせるようにして、ああそうだね、と言っている姿を昨日のことのように思い出しますね。

 

山本:いい話ですね。

 

井上氏:本当に多いんですよ、父の作品には幽霊が出てくる話。ほとんど幽霊の話と言っても過言ではないというぐらい。戦争で死んだお父さんが娘を励ますために恋の応援団長になって出てきたとか。そういう話が多いので。それがやっぱりお芝居だったら成立するんですよね。そういうのをたくさん書いてきた人なので、私は山本社長との出会いも、もちろん森本千絵さんという素晴らしい才能の方が紹介してくれたんだけども、初めてお会いしたような気がしなかったので。

 

山本:あれは家族はつらいよのロケの現場ですよね。

 

井上氏:千絵さんだって忙しいし、本当に奇特な方だからいろんな方を紹介してくださるんですけど、あんなに忙しいときにいきなり「山本社長よ。」って紹介してこないと思うんです。やっぱり千絵さんも第六感みたいなものがある方だから、父が千絵さんに紹介してやってくださいよと言われたような気がしていて。千絵さんにも感謝しています。

 

山本:たまたま昨日か一昨日にマスカレードホテルの発表会をやっていて。丁度お会いしたときに隣りでやっていましたよね。あれから1年か、と思いました。

 

井上氏:あれから1年か。そうですよね。私はすべての事が必然だと思っていて、だから山本社長は父が千絵さんに頼まれたんだという風に理解しています。それで紹介してくれたんだなと。

 

山本:ありがとうございます。

 

井上氏:思い残し切符みたいなことなのかな。よく父がそのようなことを言っていたので。父のファンであれば、もしくは私のことを知っている人であれば、思い残し切符のことは知らない人がいないと思います。それを体現している山本社長っていう。お墓もそうですよね。こういうのにしたいと思い託された、死者と生き残った人の共同作業みたいなものじゃないですか。そういうことですかね。

 

山本:ありがとうございます。