著名人との対談

VOL.41

小堺一機 氏 × 山本一郎

先人に学ぶ、「温故知新」の生き方

小堺一機 氏 × 山本一郎

対談相手のご紹介

小堺一機 氏 × 山本一郎

タレント

小堺一機

kazuki kosakai

1956年生まれ、千葉県出身。775TBS「ぎんざNOW」の素人コメディアン道場のチャンピオンとなる。

その後、勝アカデミーを経て浅井企画に所属。テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」などで

人気を博し、84年フジテレビ「ライオンのいただきます(後のごきげんよう)」の司会に抜擢される。

現在は毎日放送(TBS系)「サタデープラス」、NHK「ごごウタ」ほかに出演中、テレビ(バラエティ、ドラマ)ラジオ他、舞台、ライブ、ミュージカル、講演会など幅広く活躍中。

対談の様子

山本:今日は対談の話を受けていただいて本当にありがとうございます。

 

小堺氏:よろしくお願いします。

 

山本:こういった対談を実は40回以上やっております。僕らの業界はずっと袋小路に入っているんです。そんな中でどうしていくのかを考えるなかで、同業者は色々なことをよく考えて、「宇宙に散骨する」なんかもありますね。日本の今の散骨はお骨をパウダー状にして、水溶性の袋に入れて海に流したりします。まだまだいろいろ規制などもありますが。

 

小堺氏:何か衛生的な事でしょうか。それとも何か漁場に影響があったりとか…。

 

山本:好きなことをあまりやらせすぎると埋葬方法の収拾がつかなくなるからですかね。

 

小堺氏:樹木葬とかもありますよね。

 

山本:樹木葬が盛んになっている背景として、現在はご存知のように少子化となり、亡くなる人の方が多いことが挙げられます。核家族化も進んでいて、東京などではお墓が足りない一方で地方に行くと余っている。完全に二極化している状況です。大きな墓石でお墓を創っても、埋葬する人、墓守をする人が誰もいない、となってしまいます。

 

小堺氏:金銭的にも維持できなかったりしますよね。

 

山本:そうです。どんどん「お墓は要らないよ」となっています。実際、熊本県の人吉市などは15000基建っていて、6000基が所有者不明だそうです。間違いなく無縁仏になってしまいます。

 

小堺氏:お墓って、昔そこら中にあった気がします。夏休み肝試し行ったりとか。

 

山本:昔は本当にそうですね。そんな「肝試しができてしまうような霊園」っていうのに、今の若者たちは本当に行きたがらないんです。

 

 小堺氏:怖いと思っちゃうんですかね。

 

山本:はい。大体、「怖い」「気味が悪い」だとか。自分がお世話になったり、好きだった方が眠っているところなのにそう感じてしまうのは不思議です。

 

小堺氏:その人のお墓は良いかもしれないですけど、道中が嫌なんじゃないですかね。僕自身としては墓地に対して怖いという感情はありません。うちは母親が亡くなっているんですけど、亡くなる前にお墓を建てたので、亡くなった時に「建てておいてよかった」と思いました。どうしたら良いか分からなくなり、ずっとお骨を家に置いているっていう人も周りにはいますが、うちは平成6年に建てて、今は母親だけ入っています。僕の場合は家から歩いて行ける距離にありますよ。

 

山本:それは良いですね。

 

小堺氏:ちょうど曹洞宗のお寺が近くにあるので。今は施設に入っちゃいましたけど、父方が新潟の曹洞宗のお寺にお墓があるんです。曹洞宗ってゴスペルみたいなんですよ、お坊さんがすごい人数でお経を読んで。でも久々に親戚の葬式に行ったら簡略化して、父親ががっかりしていました。それで、今の所に生前のうちに建てたんです。結果的にはよかったですね。お経も墓前で読んでいただけますし。

 

山本:だんだんそういう方が貴重になっているみたいです。

 

小堺氏:僕にとっては人生の中でそういうタイミングっていうのが良いんですよね。あとで良かったと思うことがよくあるんです。ちょうど家の近くに曹洞宗のお寺があって住職さんもよかったのか、ありますよって言ってくれ、お墓を建てたんです。そういえばその時建ててくれた石屋さんはもう廃業しました。お寺の系列の人がケアはしてくれるんですけどね。先ほども丁度、墓石屋さんがどんどんなくなっているというお話を伺いましたけど。

 

山本:そうですね。盛大なお葬式をしなくなりましたね。昔でしたら誰にも言わずにお葬式をしたら「何かあったのかな」となっていたのに、それが常識になりました。お墓もそれと同じで、大きな墓石を建てるのではなく、家に合った墓石が当たり前になりました。

 

小堺氏:寂しいですよね。この頃は諸先輩もあちらの世界に逝かれちゃうことが多くなって、昔はお葬式に行ったものだけど、最近は「身内で済ませました」と言われてしまって。後ほど送る会なんていうのをやったりはしますけどね。丁度僕はその移り変わりの世代なので、お焼香はしたいんですよ。

 

山本:最後のお別れはしたいですよね。

 

小堺氏:お別れ会自体はやるんですけどね。本当にそういうのが増えましたよ。

 

山本:地方によってお葬式のやり方って違うと思うんですけど、この前僕より一回り下の後輩が亡くなりました。秋田出身だったんですけど、お葬式の案内が来て読んでみたら「既に火葬は済んでおります。」とあったんです。先に火葬をしてからお葬式をする、という関西や東京では考えられないかたちがあり、葬送の文化は地方によって様々です。

 

小堺氏:時代によっても随分変わりましたよね。このインターネットの時代になって「親の葬式に誰を呼べばいいんだろう」とか、意外と知らないんですよね、親のことを。だから母親が死んだときも親戚に頼んで連絡してもらいましたよ。「ああ、知らないもんだなあ」と実感しました。

 

山本:私も5年前に父が亡くなったんですが、ゆっくりお葬式をしようと思い、父の友達とかに電話帳を見ながら電話しようと思ったんです。けど、兄弟からそこまでしなくていいだろう、と言われました。でもどうせならと思い、電話をかけてみたら、ほとんどの人が来てくれて、家族以上にそういう人達が泣いていたことが印象的です。電話して良かったです。

 

小堺氏:そういう事もありますよね。母のときもそうですけど、知り合いだけじゃなくてその娘さんとかも来てくれたりしました。「お葬式」っていう映画を見たときに、あっそうだって思っていましたけど。あれもそうですよね。いざとなったら何していいのかわからないっていう映画でしたから。僕の場合は曹洞宗のお寺が大きくて、祭祀の仕方も全て教えていただけまして、それはとても助かりました。やっぱりたくさんの人に来ていただいて拝んでくれた方が母も喜んでいると思いましたよ。

 

山本:そういえばこの10年くらいでものすごく変わったことがあって、昔は必ず熨斗袋(のしぶくろ)の書き方を教えてほしいとか電話があったんですよ。お墓を親戚が建てたのでどういう風なことを書いて出したらいいのって。これが寿塔御祝っていうんですけど。大手の葬儀社から聞かれることもあって、「へえ、そんな意味なの」とよく言われていました。この何年かで、全くそういう電話がなくなりましたよ。インターネットで調べているんでしょうね。

 

小堺氏:あ、そうですね。

 

山本:寂しいと言えば寂しいですけど、これも時代の流れなので。

 

小堺氏:でもこれから、お墓ってどうなっていくんですかね。

 

山本:どんどん小さくなっていくとは思います。ちょうどこの前、社員研修でヨーロッパに行ってきたんです。我々はヨーロッパの霊園にものすごく影響を受けて霊園開発をしているので、スタッフからは「クロアチアのお墓が世界一とインターネットで書かれています」と聞いて見に行ってみたら、すごく汚れていて雑然とした感じでした。お墓参りに来ている人も少なくて。クロアチアでは継続商品がお花では無く、キャンドルなんです。お墓は1度購入したら終わってしまうので、収入のためにキャンドルを売っているようです。プラスチック製なので、風で飛んだキャンドルでゴミまみれになっていました。もう汚くなって。続けてスロベニアに行ってみました。スロベニアって日本人はほとんどの人が知らないらしく、97%の日本人が行かない国らしいんです。行ってみたらすごく綺麗でした。大体80年位前に開業したのに、霊園の中央の通路の幅が3mくらい。ヨーロッパとかアメリカの霊園で車椅子に乗ったままお墓参りしている方を初めて見ました。ほぼほぼバリアフリーで。ゴミ箱も見えないように植栽で隠してありました。ここで気づいたことは、小さい墓石がとても多いのですが、通路も何もかもきちんと掃除されていて、お墓参りの方もとても多いかったんです。

 

小堺氏:だからこそきれいなんでしょうね。人が来ないと荒れていきますから。

 

山本:そうなんです。お墓も環境さえ整えれば、人は集まってくるということの証明だと思いました。僕はいろいろな世界の墓地に行った人と仲が良いのですが、スロベニアはノーマークだったと皆さんおっしゃられました。

 

小堺氏:あちらはまだ火葬はしないんですか?

 

山本:いえ、火葬もしています。お花屋さんも火葬場も併設して全部一体になっていました。

 

小堺氏:じゃあシステム的には日本に近いんですね。

 

山本:そうです。あれだけバリアフリーにしているのに、お花を買いに行くところだけ急な階段がありました。もったいなかったです。でも本当にきれいでしたよ。

 

小堺氏:お墓が荒れちゃうとかわいそうですよね。毎月1日と16日にお墓参りに行くんですけど、その時に「永代供養が終わり撤去されます」みたいなことが書いてあるお墓を見たりします。僕のお世話になっているお寺って有名人のお墓がたくさんあるんです。いつも会釈してお墓参りしています。たまたま家を建てて、一番近くの墓地がそこだったんですが、やっぱりそれもご縁だと思いました。

 

山本:今までお仕事で携わった方で、故人になり思い出に残る方はおられますか?

 

小堺氏:勝新太郎さんですね。すごく楽しい方で、僕らなんかにも気を遣ってくれました。「楽しいか?」とか聞いてくれたり。でも、いたずらするんですよ。黒澤明監督の「影武者」を受けて降板しちゃったんですけど、影武者をやるってことで世界配給になるし、黒澤さんが久々に撮るっていうんで、コッポラとかスピルバーグとか来て大騒ぎになって。黒澤復活!影武者で勝さんが出るっていうんで、勝プロとしても盛り上がって、後進を育てるために勝アカデミーっていうのを創って、僕はそれを受けたんです。それで1期生で入ったんですけど、結局影武者降板したんですよ。当時は岸田森さんが担任で、勝さんも来るんです。みんな新聞を持って来て、「やめちゃったんだってさ」って言って、まだ私は当時20歳とちょっとですけど、「これすごいお金じゃないの。なのにやめちゃったんだ」って。丁度その日は勝さんが来る日だったんですけど、同期のルー大柴が、「勝さんがこの話を僕たちにするだろうか」と。僕は「絶対する」って言いました。あの人はそういう人で、目下だからどうとかする人ではないから。ルーは「絶対にしない」って言ったんです。しばらくして勝さんが来て、普通の芸談をするわけですよ。口ごもっていて正直よくわからなかったんですけど(笑)皆熱心に聞いてるんだけど、そのうち皆の顔を見て、「お前ら違う話聞きたそうな顔してるな」って言ってその話をなさったんです。まあ所説あるって言われていますが、僕が生で聞いたのは、勝さんがビデオを撮っていたら、黒澤さんが「それは僕の仕事だからやめてくれ」と。勝さんは「自分のためだけだから良いじゃないか」と。そのままずっと平行線で。後で先日亡くなった萩原健一さんから聞いた話では、勝さんが稽古場に来なかったみたいなんですよね。あの萩原さんが「来なきゃダメです」って怒りに行ったそうですよ。そんなことがいろいろあって。仲代達矢さんと勝さんって仲が良いんですよ。仲代さんが代役になったじゃないですか。やっぱり勝さんが仲代さんに聞いて、「俺はどうしたらいいんだ」と。黒澤さんみたいな人と組んだことなかったので、仲代さんが「駒に撤しろ」と言われたそうです。黒澤組というのは、黒澤さんが右向けと言ったら右向く。もう素材になるんだ、と。でも勝さんってそういう人じゃないんですよ。こうもできる、こうもできるってやっちゃうと、黒澤さんは一番嫌だったかもしれませんね。

 

山本:監督が二人になってしまったわけですね。

 

小堺氏:そうなんですよ。で、船頭多くして…と。もう僕らが見た感じだってわかりますよね。水と油みたいな感じじゃないですか。でも勝プロの看板を背負っている大スターの勝さんが辞めてしまうっていうのは相当なことだったんではないですか。そしたら「どうして辞めたかわかるか」って皆に聞くんです。芝居の方向性でしょうか、とか各々聞くんですけど、結局ちょっとわからなかったですね。黒澤さんって人はジャージで稽古とかはさせないんですね。侍だったら腰に真剣をさして、そのまま寝泊まりさせたりして。「真剣をさしていたら自然と腰が落ちて歩き方が変わるんだ。」と、そういう方なんですよ。いつでも「信玄なんですよ」っていったら信玄の恰好をしているんです。「俺は武田信玄なんだ」と勝さんが。私服だったら謝ったそうで、武田信玄に黒澤如きが何を言うと言ってバスから降りて行ったんですよ。それで辞めちゃうって。面白いなあと。その後いろいろなことをしてくれたじゃないですか。

 

山本:でも憎めなかったですよね。

 

小堺氏:本当にそうです。

 

山本:僕は今まで言っておられたみたいに、勝さんの影武者見て観たかったですよ。武田信玄の肖像画にそっくりじゃないですか。

 

小堺氏:黒澤さんの絵がもう勝さんの絵でしたよね。

 

山本:結構印象に残っているのが、黒沢年雄さんを乗せた車をぶつけたりとか…。

 

小堺氏:そうそう、そういうことを。そんなことばっかりするんですよ。あるとき、僕らが行くような居酒屋に来たんですよ。目立つんですよね。店長さんが二度見するっていうのを初めて見ました。そしたら店長を呼んで「お店を貸し切りにしてくれ」って言って。他のお客さんいるんですよ。店長は「まだお客さんがいらっしゃるのですが…」と。「貸し切りにしてくれって言ってるんだよ」って、言われるなり「はい」って言って、なんとかしようと行くんですけど、「見てろ見てろ、面白いから見てろよ。お前らこういう台本をもらって、無理な事を言われた店長って絶対にあっち行って、こっちの機嫌を取るような芝居をするだろ、絶対こっち見ないから見てろよ。」って言ったんです。一回もこっちを見ないんですよ。必死にお客さんに声かけて、戻ってきて、「今すぐは無理です、申し訳ありません」と。そしたら「ありがとうね」って一万円渡すんです。「勉強になった」って。その一万円の渡し方がね、断れない間なんですよ。あれが芸だと思いました。取っちゃうんですよ、皆。取ってから「これは…」と。勝さんとその後ご飯を食べたときも、僕は絶対企画が通らないと思ってたんですが、冬のラジオの番組で営業何年かの特番をやるといって、僕だけだと箔がないから萩本欽一さんと勝さんひとりずつ映画について語ってもらったらすごい番組になりますよね、と言われて、断られると思ったんですよ。そしたら決まりましたって言われて。まず萩本さんには参ったなと思って。で、勝さんは場所まで決めてきて。そこで皆待ってるんですけど、蝋人形みたいになってしまって。

そこに勝さんが来て、ディレクターに「小堺の質問に答えりゃいいんだろ」と言ってスタッフが「そうです」って言って僕の方見ないんです。ずるいんですよ。

それでずっと喋っていたら、勝さんが「お前、今日これからどうするんだ。飯喰おう」って言われて。ちょうどその時期に関根さんとラジオをやっていたんで「今日はラジオの生放送がありまして、すみません。」って言ったら、勝さんが「何時からだ?」ていうので、「9時か10時頃には・・・」って言ったら、「じゃあ10時まで呑むよな」って言われたので、「生放送なので呑むわけにはいかないです」って言ったんですけど、断わりきれないんですよ。

それで近くにあった鉄板焼き屋さんに行ったんです。勝さんの息子さんが見学に来ていて、ぼくが司会で勝さんが居て・・

そこで肉を焼いてもらうことになって、出てきた肉が魯山人みたいなお皿にのって3切くらいなんですよ。それを食べていたんですけど、両隣に勝さんと息子さんがいて、緊張して味が分かんないんですよね。勝さんはワサビで食べて「日本人で良かった」とか言って・・・

すると息子さんがタバコを吸いだしたんですよ。そしたら勝さんが「なんでお前が吸えんだよ。仕事してねえじゃねえかお前は・・なんでお前が一番先にタバコ吸うんだよ」って怒ったんです。

ちょうど僕もタバコを吸おうと思って、タバコ出しかけていたんです。けど、この空気ではマズいなと思って、しまおうとしたら、ちょうど見られていて、「お前はいいんだよ。仕事したんだから。」って言われたんです。けど、「大丈夫です。僕は後で吸います。」って断ったんです。けど、「お前はいいって言ってんだろ」って言って、「ありがとうございます」って言って一瞬で吸い終わらしました。

それで、肉食べながら話していたら、勝さんがいきなり口から肉を吐き出して、シェフに「お前、いつからこんな肉出してんだ」って言いだして、僕に「この肉おかしくねえか」って言われたんですけど、僕は大丈夫ですって言ったんです。

そしたらシェフが「昨日仕入れたばかりの肉です。確認して参ります」って言って厨房から出て行ったんです。そしたら勝さんが「今の顔覚えてろよ。あれがホントに驚いたときの顔だぞ。今の役者は習ったような一つの驚いた顔しかできないから、ああいうのを覚えておくんだよ」って言うんです。またシェフが戻ってきたら「ありがとね。勉強させてもらったよ」って言ってまた一万円渡すんですけど、そのシェフも受け取っちゃうんです。

今、芸がないとか芸があるとかっていうけど、あれができる人って今居ないんじゃないかと思って。日舞やってたからとか殺陣やってたからとかじゃなくて、人間の間を知っているというか。芸なんですよ、お金をすっと渡すのも。

 

山本:僕らの業界でもそうなんですけど、親戚でもうるさい人はいなくなっていますね。みんな好き放題になっているから、混線していっているというか。やわらかくなりすぎている。

 

小堺氏:ずいぶん前に明石家さんまさんと話したことがあるんですけど、吉本が学校になってからよくないと言うんです。師匠がいると上の人がいつもいるから、他の仕事をしたときに、この仕事は人に見られたら怒られるなあと思うんです。学校だと、それはそれですごいことなんですけど、自分で創り出していくじゃないですか。でも、今の奴は、師匠に見られたら怒られるっていう考えがないんだと言っていました。それはあるかもしれません。怖い人がいるというか。

 

山本:大切ですよね。

 

小堺氏:委縮するのはよくないですけどね。だからなのか、今の若い子たちって、僕らが怒られた時の話をするとびっくりするんです。そんなこと言われたら、僕できないです、って。「てめえ、このやろう」とかね。

 

山本:今そんなこと言ったらすぐパワハラだとか言われますかね。

 

小堺氏:今だったら昔の芸人さんみんな捕まっちゃいますよ。例えば、舞台俳優さんだったら「俺より前に出るな」って小声で言われたとかね。でも、そういうの面白いと思うんです。

 

山本:本当に、豪傑な人がどんどんいなくなっています。それはそれで社会の構図かもしれませんけれど、日本人として淋しいですね。先ほど言っていたように、お葬式も寂しくなっているじゃないですか。

 

小堺氏:そうですね。僕だったら、人に笑ってもらうことを覚えたのがお葬式だったんですよ。私が小さかった頃、お葬式でずっと泣いていたおじさんが、脚がしびれてお焼香の時に転んでしまったんです。みんなそれを見て我慢してたのに、僕は笑っちゃって。その場では怒られたんですけど、家に帰ってまたその話をすると、親がげらげら笑っているんですよ。それで、悲しいときには笑っちゃいけないんだけど、笑っちゃいけないと思うからおかしいんだと思って。その人が泣いているところを見て他の人ももらい泣きしてるんですよ。僕はまだ子供だったから、そんな姿なのに転んだことがおかしくって。それをその時に笑ったら怒られたけど、家に帰って真似したら両親が心置きなく笑ったから、人が笑うって嬉しいなと思って。

このごろなんかおかしくなっていて、お通夜で笑っている人がいたら怒る人がいますね。不謹慎じゃないですかって。あえて楽しくしているのに、正論ではあるけれども、人が死んだんですよって。クレームとかそうだけど、「そうなんだけどそういうことじゃないんだよ」、っていうことがありますね。

昔、父の故郷の新潟にあるお寺に行ったんですけど、父が間違えて違うお墓にお参りした時も、住職さんがおおらかでした。で、父が取り上げた花から一本だけそのお墓に置いてあげたら、住職さんが僕のことをいい子だと言ってくれて。

 

山本:田舎に行ったら、隣や前後のお墓にもお焼香してあげたりしましたよね。でも、もうそういう世界観が無くなってきているんでしょうね。

 

小堺氏:そういう、おおらかさがね。

 

山本:今回お話ししたかったことなんですけど、15年前ほどに大病をされた時に生死についてどんなことを考えられましたか?

 

小堺氏:大病というか、リンパ節転移のガンなんですけど、お医者さんが言うにはリンパ節に転移した大元があるはずだと。でも、探しても無かったんですよ。治っちゃったのかもしれないけど、両方のリンパ節を取らないといけなくなったんです。その時、もしかしたら死んじゃうのかもしれないということは考えましたね。でも、入院してしまうと不思議と開き直っちゃいましたね。そのときちょうど主宰舞台の20周年記念の年だったのでガンになったのはちょっと辛かったですね。自分で病気について調べたりもしましたけど、調べると分かってしまうから、あれはよくないですね。ネガティブになるから、いい言葉が入ってこない。人間ってそういうものばかり見てしまうから、死に至る、とかいう言葉ばっかり入ってきてしまって。お医者さんに任せたらいいんだと思ったら楽になっちゃいました。夜に映画を見たりして、寝られるかなと思っていたんですけど、消灯したらすぐに寝ちゃって、朝も6時に起きてご飯も食べたりなんかして。女房には順応性があるのか馬鹿なのかわからないなんて言われちゃって。リンパ節を取ってもらい、ずっと診てもらって、僕は落ち着いちゃいましたね。悟ったのではないんですけど、何かして良くなるなら、身を任せるというのもありだなと。そのお医者さんのこともそうですけど、僕は人とのご縁にすごく支えられていると思いました。その後別の舞台で首の神経をおかしくしてしまって右手が動かなくなってしまったことがあったんです。その舞台を(中村)玉緒さんのマネージャーさんだった人が見に来てくださって、僕は右手が動かないのをわからないようにやっていたんですけど、その方が急に、「何か疲れていたり、首に何かあるようでしたら、すごく良い鍼の先生を知っているので、言ってくださいね」って言うんです。僕は何にも言ってないんですよ。それで、少しでも良くなるならと思って行ってみたんですけど、それ以来今でも通っています。

なんて言うんですかね、今までの人生でも、どうしようと思ったときや困ったときに誰かが何かしてくれる。お墓を建てたときも、それ以前はお墓を建てようって思ってなかったんです。でも、母が亡くなったとき、入りたかったどうかはわかりませんけど、ちゃんと入れてあげられたなと思いましたね。その時は入念に未来を予測してやったわけでは全くなくて、父親が言い出したことと、今なら建てられるからということで建てたんですけど、それがよかったり。そんな経験が多いですね。

僕は昔、NHKの合唱団にいたんです。僕はちゃらちゃらしていたんですけど、一緒に番組に出ていた山田隆夫くんとかがいて。そのころまだ小学生だったんですけど、山田君は本気で芸としてまじめにやっているんですね。舞台のそでで「ちゃんとやれよ」って怒られました。この人、本気でやっているんだって思いました。芸能界は楽しかったですけど、僕みたいな普通の人が来る所じゃなくて、腕のある人なんかが入ってくる場所だって思いましたね。クラスではバカなことを言ったりして笑わせていたりしたんですけど、その時一緒だったゆりちゃんっていう女の子と大学生になってから久しぶりに会ったんです。当時やっていたことと同じことをしたら、「まだそんなことしているの?」って言われて、「そうだよ、まだやってるよ」って話になって。そうしたら、「ラビット関根さんも出てる番組に出たら?」って言われたんです。その時は大学三年だったから、そんなことしたら親になんて言われるか…と思っていましたけど、数日後にオーディションのハガキが来て、親にこれは何だって怒られました。僕は全く応募してなかったから、友達に誰が応募したんだって電話していったんですね。もしかしてと思ってゆりちゃんに電話したら、「ハガキ届いた?私が応募しておいたの!」って言われて。彼女が出してなかったら僕、この世界に居ないと思います。普通の会社に入って宴会部長くらいはやってたかもしれませんけど。

浅井企画に入るのも、他の事務所に入ったら強面のマネージャーとかいて怖いなと思っていたけど、欽ちゃんがいるような所だから浅井企画っていいんじゃないかなと思っていました。けど入れないと思っていました。

それでどうしようかなと思っていたら、たまたま浅井企画に居たマネージャーさんから、堺正章さんが司会していた「紅白歌のベストテン」の前説を浅井企画の先輩のタレントさんがやっていると聞きました。そのタレントさんが他の番組などのスケジュールで辞めることになって人を探していたみたいで、そしたら僕にやってみる?って言われたんです。

それと同時に本屋で立ち読みして、これからどうしようかな?と思っていたときに「勝アカデミー」の応募を見たんです。それをみて、「こういうところに入っていれば、何にもしないよりは親にもこういうところで勉強したいって言えるな」と思って、二つ選択肢があったんです。

その後、浅井企画に入れてもらったんです。そしたら萩本さんに会えて・・・っていう流れです。

だから自分で切り開いたっていうよりは、あっち行けこっち行けって言われてはいはいって言って行ったら今になったんです。

僕はよく例えで言うんですが、萩本さんとか、たけしさん、さんまさんっていうのは、クルーザーでエンジンが付いていて、自分の行きたいところに行くんですよね。

逆に僕は、帆船で風が吹く方向にそのまま行くんです。興味が無いこともあるんですけど、行ってみれば結局面白かったりするのが多いんですよね。思い返してみれば、風の向くままに行ってみれば全部良かったなと思います。

萩本さんにお会いして、よく不思議な事を言っていて「経験があることでは成功しない。人って苦手なことで成功するんだよ。」

 

山本:それ分かるような気がしますね。

 

小堺氏:環境はあると思うんですよね。うちの父親は施設に入っていますけど、本当に男って駄目ですね。奥さんが亡くなると元気が亡くなっちゃって。

 

山本:うちの父親もそうでしたよ。

 

小堺氏:笑っちゃいけないんですけど、ちょっと笑っちゃうくらい、違う人みたいになっちゃう。

 

山本:おっしゃる通りですね。

 

小堺氏:昭和一桁の男なんですけど、ちゃぶ台返したりするんですよ。父親が「出てけ!」って言ったら母親が「どこから!」って言うんです。可笑しいじゃないですか。で、親父が「えーっと」って言うんです。面白いなあって。星飛雄馬だとちゃぶ台返しで泣いて「お父さん・・・」とか言って、次の日帰ってくると父親が直してるんですよ。うちの母親は映画が好きで、「映画ではエンドロールで良いとこで終わるけど、人生はその後からなんだよ」、と。良い話をしてくれてね、ローマの休日を子供の頃に見て、最後にグレゴリーペックさんが宮殿でみんながいるなかで、一人で切なく去っていくんですよ。僕は子供だったから「母ちゃん、最後が長すぎない?」と言って、悲しいようななんだか分からない気持ちになっちゃって。そしたら母親は「それを切ないって言うんだよ、憶えておきなさい」と言って。その後母親は遠くを見て、「グレゴリーペックさんの記者もね、次の日、アン王女はどこにいるんだろう、逆に王女も記者はどうしているのか、と思っているんだよ。でもある日気が付くとね、思い出さない日が来る、それが人生よ」と。あの頃母親になにがあったんですかね(笑)この間お墓で聞いてみたんですけど何も答えてくれなくて。何か辛いことがあったんですかね。そんな感じで、映画の見方もそんなことを言ってくれるので面白かったです。そういう家だから面白いことが多かったです。

 

山本:子供の頃に切なさや、その間をお母さんが教えてくれたことはしびれます。

 

小堺氏:そうですよね。だから中学の演劇部で、偉そうで生意気になったときに「お前名前なんだっけ?」って聞いてきて、小堺ですと答えると「帰ったら『小賢しい』って調べてみろ、お前今小堺じゃなくて小賢しいだよ」と。実際帰って調べたら血の気が引いちゃって。「お前偉そうにしてんじゃない」って怒るのとは違うじゃないですか。辞書で調べてみてひやっとしちゃって。いろいろな人にそういう教え方をしてもらいました。「きれいな水だな、と思ったら、きれいな水のままでやってごらん」とかね。萩本さんには「コメディアンになりたいの?」と言われて、「じゃあギャグを言っちゃダメ」って。自分もさんざん言っていたのに、と思ったんですけど、「あれは困ったから言ったんだよ」と。どうしたらいいかなって。で、「寅さん見てごらん、ギャグ言わないだろ」と。「「ただいま」がおかしいだろ、ただいまにいろいろ入っているだろ。普通のセリフで笑わせるのがコメディアンだ」って言われて。ああなるほどな、と思いました。みんなの前で30分ぐらいずっと「ただいま」って言わされたことがあるんです。「違う違う」ってずっと言われて、でも何が違うか分からないじゃないですか。そしたらそのうち、「その日に何があったのか分からないんだよ、お前のただいまは。嫌なことがあった日なのか、嬉しくて仕方がない日なのか、そういうのが無いからこたえられないよ。」って言われたんです。「そんなこと思ってないから、字を読んでいるだけなんだよ」。それは作家に対しても溜まっていたみたいで、次の日現場に行ったら脚本に「ただいま」って書いてあったんです。そしたら萩本さんはバッと閉じて、「ただいまの前に言いたいことが無きゃドラマはない、書き直せ」と。その間3時間みんな待っているんです。待ってる間なんですから、「お饅頭食べたいけど、お母ちゃんに怒られている子供やってみな」とかやらされて。早く作家の人書いてくれと思いながらやるんですけどね。「大体お前ら食べたい顔するだろ?それは0点だよ。見ないんだよ。で、食べたいから手で探って、もともと置いてあったところに無くて、そこに手が行ったときに笑うんだ。それが笑いとして一番かっこいい」。僕は笑いって、ただ爆笑して腹痛いとかが一番の誉め言葉だと思ったんですけど、萩本さんは東八郎さんの舞台を見たときに笑いがステキでほれぼれしたらしいです。それがステキだなと思いました。その域にはなかなか行けないですけど、萩本さんのおかげで今先輩に言われたことがまとまっていますね。あと、たまにご自分でも仰るんですが、昔視聴率100%男と言われていたときに、ピリピリしちゃって視聴率の数字を当てていましたよ。収録終わって、18.2%と言ったら次の日本当に18.2%なんですよね。プロデューサーも言うこと聞きますよね。

 

山本:本日は楽しいお話を本当にありがとうございます。

 

小堺氏:勝手にしゃべってしまって。

 

山本:いえいえ、最後に僕らのお墓業界っていうのはこんなふうにしたらいいのになっていう話はありますか?

 

小堺氏:やっぱり最初におっしゃったように、明るいとかきれいっていうのは面白いですよね。逆に言ってみたら、お化け屋敷じゃない楽しいお墓をいっぱい創ってしまえば、日本は結構そういう方向に進んでいきますよね、樹木葬とかもきれいなところが多いですし。うちのお墓は親父が南極に行ったりしているので、南極の石が飾ってあるんです。堺さんが最近お墓を検討して見学に行ったらしいんですけど、「あなたのお墓を見たら南極の石が飾ってあって、あれいけないんじゃないの?」と言いながら、「一つくれませんか」と(笑)もう埋め込んであるので断りましたが。自分が病気になったときはショックでしたけど、母親が亡くなって初めて肉親を失って・・・高校の時に友人が亡くなったりとかはありますけど、その時は悲しいは悲しいですけど、今一つピンと来なくて、本当にいなくなっちゃったのかな、っていう感じじゃないですか。これはもう後付けかもしれないですけど、なんだか母に会いたくなって、電話して今日行くよって言ったら折り返しでかかってきて、「具合が悪いからお医者さんに行くしいいよ」って言われました。じゃあ送っていくよと言って、送っていったんです。そしたら日曜日で普通のお医者さんが居なくて非常勤の先生で、二時間くらい待合室で待って、普通にお話ししていました。具合が悪いと言ってもそこまできつい雰囲気ではなく、初めての気持ち悪さだけど、何かしらって言ってね。結局薬をもらって家まで送って、お茶飲んで雑談して、またねって帰ったんです。翌日気になって電話したら父親が出て、まだ寝てるわって言って。お母ちゃん大丈夫?って聞いて呼びに行ったら「ああ」って声が聞こえてきました。亡くなっていたんです。下腹部に動脈瘤ができていたのが破裂したみたいで、だから気持ち悪かったそうです。でも、よく考えたら前の日に二時間一緒にいられたんですよね。

 

山本:最後に時間を与えていただいたんですね。

 

小堺氏:でもやっぱりそういう母親でしたから、肉親っていうのは違いますよね。

 

山本:それは大きいと思います。

 

小堺氏:お墓もすぐできたし、いろんなことができて良かった。建てたときに母が冗談で「私が最初に入る」って言っていたのを妻が覚えていました。親父には冗談で、「最近は奥さんが一緒のお墓に入りたくないっていうけど、もう先に入っているからそれは大丈夫だよ」とか言ったりしましたね。

 

山本:今日は貴重な時間ありがとうございました。