著名人との対談

VOL.57

未知やすえ氏×山本一郎

吉本新喜劇65周年。生涯舞台に立ち続け、笑いというメッセージを届けたい

未知やすえ氏×山本一郎

対談相手のご紹介

未知やすえ氏×山本一郎

タレント・女優

未知やすえ

Yasue Michi

1963年8月7日生まれ、東大阪市出身
1979年、高校在学中に花月・ポケットミュージカルスにダンサーとして出演し、その後吉本興業入りする。
1982年4月1日、漫才コンビ「やすえ・やすよ」を結成。デビュー間もないころに若手漫才コンクールで新人賞を受賞するなどして、将来を期待されていたが、1984年12月30日にコンビを解散。
その翌日から吉本新喜劇に入団する。存在する。

対談の様子

山本:吉本新喜劇が今年65周年を迎えました。おめでとうございます。そんな長い歴史の吉本新喜劇ですが、やすえさんは高校在学中に歌手志望として、この世界に入ったそうで、子どもの頃から歌手を目指していたのですか。

 

未知氏:私は東大阪の団地で生まれて、すごく庶民的というか、ご近所の方がいつも玄関に出入りするような普通の家で育ちました。やんちゃな女の子だったので、ちびまる子ちゃんの世界そのもので、風呂敷を巻いてコタツの上でウララ~ウララ~って山本リンダのものまねをするような子だったんですよ。当時は歌番組がものすごく多くて、キャッシーアンドプリンさんが司会をやっておられた「パクパクコンテスト」という番組があって、俳優の草川祐馬さんや川崎麻世さんらが歌に合わせて振りマネをするんですけど、そんなマネをして歌ったり踊ったりしてたんです。

いつか歌手になりたいなと思いながらも実際は遠い話ですけど、「スター誕生」っていう番組で山口百恵さんが「私が歌手になって家族を支えたいです」っていうことをおっしゃったときに、歌手になったらお金儲けができて親を楽にさせられると思って本気で目指したというのがきっかけなんです。

小中高とずっと一緒だった友だちと中学校3年ぐらいからホリプロスカウトキャラバンだったりスター誕生だったりとか、いろいろなところに応募しました。結局全部落ちたんですけど、なぜか吉本興業だけ受かって。そのときは吉本も漫才だけじゃなくて、「漫才、落語、新喜劇以外のタレントを求む」っていう枠があったんです。そのなかに歌手とかモデルという枠があったので、「吉本でも歌手になれんねんや」って応募したら通ったんです。それが高校1年生のときです。

それからは高校に通いながらダンスを習って、うめだ花月、なんばグランド花月(NGK)には出てたんです。でも、高校2年のときに、突然会社から解散って言われたんですよ。私はあと1年したら就職なので吉本に入るつもりでいたんですけど、どうしたらいい?となったときに、いつも2人でいたので「おまえら漫才せえ」と言われて。私たちアイドル歌手を目指しているのに漫才なんか無理ですと……。

「とりあえず素人名人会にネタを自分らで作って受けろ」って言われて、やったんですけどももちろん不合格で、普通に高校卒業して就職せなあかんのかなっていうときに、その素人名人会本番に欠員が出たんですよ。そうしたら「とりあえず、おまえら出とけ」ということになったんです。予選落ちした受けへん漫才をテレビの放送でするなんて恐ろしいことないじゃないですか。そんな恥ずかしいこと、嫌ですと言うたら、「ほな辞めんのか? なんでもええから数や」って。うちの会社、目茶苦茶でしょう。そうしたら名人賞をもらってしまったんですよ。実はそれがきっかけで漫才で吉本に残ることになったんですよ。

コンビ名は2人の名前を取って「やすえ・やすよ」で、当時はBBさんの「笑ってる場合ですよ」でも5週連続チャンピオンにならせてもらって東京へ行ったりもしていました。

山本:「笑ってる場合ですよ」にも出演されていたんですか。それはすごいですね。当時の漫才ブームの火付け役のような番組でしたから、ずっと漫才をやられていたら、その道で稼げたんではないですか。

 

未知氏:でも、これもある日突然、20歳過ぎのことですが相方が辞めたいって言い出して。それも人それぞれの道なので、会社にコンビ解散しますと言いに行ったんです。相方は商業高校を出ているのでどこでも就職できるんですけど、私が持っているのは原付免許と言ったら、会社のお偉いさんから「あほか。おまえはあほやから吉本残れ」って言われて。もうホンマにムッと思いましたけど、相方も残ったほうがいいと言うので、そのまま残ることになったんです。

でも、漫才するなら男性とコンビを組んでみようかと言われて悩んでいたその晩に会社から電話がかかってきて、「今日の晩、新喜劇の稽古があるから出ろ」って言われたんですよ。もう台本に名前が載ってるからって。だから、本当に漫才を解散したその日の晩に新喜劇の稽古をやってるんです。

 

山本:吉本はやっぱりすごいですね。たしかに目茶苦茶です。ただ、いきなり新喜劇の舞台役者としてデビューして、戸惑いや難しさというのはなかったんですか。また、新喜劇役者として楽しさを感じるようになったのはどのくらいからでしょうか。

 

未知氏:ありがたいことに、吉本っていろんな番組があって、それこそあっちこっち丁稚などのコメディーにも出させてもらいましたので戸惑いはありませんでした。ただ新喜劇はチームでの芝居なので不安はありましたけれど、初めて入団した組が間寛平兄さんが座長で、浅香あき恵さんが女性のトップやったんですよ。みんな優しい方で居心地がよすぎて現在に至るという感じです。初めはほとんどセリフがなくって、それこそ三枚目役でした。寛平兄さんのお見合い相手で、幕締めに寛平兄さんに「こんなやつ嫌や」って言われる役ですよ。そんなオチの一瞬だけの端役でした。

新喜劇って面白いなと思い始めたのは、1年半くらい経った頃ですかね。そもそも漫才って2人でつくっていって2人で見せるものなんですけど、新喜劇に入ったときに、幕開きから幕閉めまででポイント、ポイントで笑わしていく。自分ひとりじゃなくて、全員でパスしながら笑いをつくっていって、最後に大きなお笑いになるということを感じました。たとえ自分が笑いをとらなくても、そのあとの先輩方がしっかり笑いをとって1つのものをつくり上げるっていうところが魅力ですね。

 

山本:何を言うかわかっていても笑ってしまうのが新喜劇のすごいところです。やすえさんはその後、同じ新喜劇の内場勝則さんとご結婚されて話題になりました。ある記事を読んだのですが、ご結婚されてから3年後くらいでしょうか、離婚危機ということで100日ほど家出をされたそうですが……。差し支えなければ、いまだから話せる当時のお話をお聞かせいただいてもよいでしょうか。

未知氏:「内場家100日戦争」ですね。言ってみれば社内恋愛、周りには内緒にしていたので、結婚を発表するまでは2人でどこかに行くこともなく、イチャイチャすることもできなかったので、結婚したら晴れて手つないで歩いたりできるものやと思って新婚生活はピンク色やとあこがれていたんです。

でも、いざ結婚してもなんにも変わらない。仕事の内容も変わらないし、内場君もクールなというか、飲みに行く約束はそのまま普通にあるし。「今日はお鍋にしよう」と言って、劇場の合間に買い物に行って、家に帰って仕込みして、すぐ食べられるように準備しておいて、劇場が終わってひと足先に帰ってセットして待っていたら内場君から電話がかかってくるんです。「チャーリーさんに誘われたから行ってくるわ」って。私も可愛く、「嫌や、行かんといて」なんて言えないし、内場君も先輩から誘われているのを断れないじゃないですか。「じゃあいいよ」って電話を切ってから「くそっ」と思って、2人分の鍋を1人で全部食べていました。そういう積み重ねがあって寂しかったんですかね、きっと。

ある日、酔っぱらって帰って来た内場君に私が怒ってしまったことがあったんです。そうしたら、ふだん怒らない彼がめずらしく私に怒鳴ったんですよ。それでびっくりして泣いてしまって。それだけならよかったんですけど、内場君が「泣いてすむと思うな」ってさらに追い打ちをかけてきたんですよ。「もう出てったる!」と思って、彼が酔っぱらってグーすか寝ているなか、泣きながら荷物を詰めて、翌朝に劇場に行くふりをしながら荷物を持って何も言わずに実家に帰ったんです。

でも、劇場では会うんですよ、舞台も一緒で。1日、2日は家に帰ってんやろなってもんなんですけど、どこ行ってんねんとか、なんで出て行ったとか聞かないんですよ、あの人。それがまた腹立つやないですか。そう思いながら舞台で恋人役しているんですから。それがまた余計に腹立ってね。でも、周りに悟られたらあかんし、お客さんにももちろん悟られたらダメなんで、もう内場君と目を合わすのも嫌やから、彼の眉間を見つめて「死んだらええねん」と思いながらずっと芝居をしていました。それでも何もないんですよ。ほんまに私に興味ないんかな思うくらいほったらかしなんです。

 

山本:その状態が100日も続いたんですか。最初に話をするきっかけを失ったからなのか、毎日仕事で顔を合わせていて元気なことがわかるからよかったのか、内場さんも逆にすごいと思ってしまいますよ。100日戦争というくらいですから最終的には“終戦”を迎えるわけですよね。

 

未知氏:もう離婚するつもりで実家に帰ったので、通勤するのに車も買っていました。離婚届けも市役所に妹に取りに行ってもらって離婚の用意もしていました。まあ仕事で顔を合わせているから、お互いに元気なのはわかるけど、結局、内場君は100日間1回迎えにも来ないし、3カ月ほど経った頃に翌日の収録で着たい冬服を取りにいったん家に戻ったんです。本当やったら実家に戻るんですけど、収録現場が近かったので、なぜかその日は泊まったんですよ。

内場君は案の定、ドアに頭をドンガンゴンガンぶつけて、誰もいないのにピンポン鳴らして酔っぱらって帰って来ました。その日は私の靴もあるし、布団も1つしかないので私が寝ているのがわかるじゃないですか。でも、お帰りも帰って来たんかもひと言も言わず、横でまたいびきをかいて寝だしたんです。また「腹立つわ」と思って寝ていたら、その朝、阪神・淡路大震災が起こったんです。

あまりにも大きな揺れに私が叫んだら、その瞬間に、内場君が「大丈夫よ、俺が守るから」って上からばーってかぶさって私を守るようにしたんです。

しばらくして落ち着いてから周りを見たら、食器棚の食器が落ちて割れていて、「えらいことになったわ」って思って内場君を見ると寝てるんですよ、平然と。あとで大地震があって私にしたことを話すと、まったく覚えていないんです。

でも私は、いいほうに考えているんですよ。酔っぱらいの本能というか、酔っぱらっていても守ってくれたっていうのが、この人の本心なんやなとって思ってうれしくて、そこから家に帰るようになったんですよね。だから、阪神・淡路大震災がなかったら、たぶん100日が200日になっていたかもしれませんし、365日になっていたかもしれません。

 

山本:あの大震災が夫婦の絆が強くしたというのも何とも数奇な運命ですね。震災で多くの被害を受けましたし、亡くなられた方もたくさんいらっしゃいましたけど、震災の受けたあと、吉本新喜劇の再興まではどういうふうな道のりだったのですか。

 

未知氏:震災があった当日もNGKは舞台を開けたと思います。でも、もちろんお客さんも少ないですし、それからだんだん大変なことやっていうことがわかって。新喜劇でも兵庫県の方が多くいて、桑原和男さんには連絡がつかなくて、尼崎の井上竜夫さんが助っ人で来てくださったりとか、その日は本当にバタバタで、さすが2回目以降はお休みになりました。新喜劇の座員さんのなかでもご家族が亡くなった方もたくさんいらっしゃったんで、そうした悲しみを乗り越えるためにも、そして1日でも早く関西の皆さんが笑顔になってもらえるようにって考えたら、お笑いも大事なんかなって思えて舞台再開に向けて動きましたね。

ありがたいことに震災から少し経って再開してからも、多くのお客様が足を運んでくださいました。吉本のお笑いの場所に来た方って、劇場の中に1歩入って、緞帳(どんちょう)が開くと、やっぱり笑ってくださるんですよ。そんな姿や笑い声に私たち座員も幸せになりますし、劇場をあとにするお客さんが「面白かったわー」って言ってくれたり、舞台を終えて道を歩いていても「いま見てきたよー、面白かったわー」という声をいただけたことが一番幸せでした。一歩ずつでも復興に向けて進んでいってるんやなって感じました。

 

山本:やはり過酷な状況に状おいても、笑いというのは皆さんにとっての活力になると本当に思います。やすえさんにとってお笑いとは、新喜劇とはどういうふうにお考えでしょうか。

 

未知氏:このお仕事しか知らないんですけど、私のなかでは最高のお仕事をさせてもらっているなと本当に思います。もちろん皆さんの笑い声そうですけど、とくに子どもがキャッキャって全然違うところで笑う子もいるんですけど、それにつられて舞台で笑うこともあるんです。また、コロナが明けてからは地方のほうからもバスに乗って団体さんが戻って来られて、お年寄りの方が本当に楽しみに来ましたとか言ってもらえて、ありがたいことに満員になっています。

自分が好きな仕事ができて、皆さんが喜んでくれる仕事をさせてもらえているっていうのがやっぱり一番の幸せなので、ありがたいお仕事をさせてもらっているなって思っています。これがなかったら、私は何してたんかなって考えるんですけど、なんにも思いつかないです。

新喜劇って座長さんもどんどん変わっていって、時代も変わってきていますし、お笑いのつくり方も変わってきていますけど、それでも変わらずお客様が楽しみに子どもさんからおじいちゃんおばあちゃんまでも幅広い層が来てくださるんですよ。お休みになったらおじいちゃんおばあちゃんがお孫さんを連れて来てくれたり、家族で見に来てくれたりと、やはり家族で楽しめるところを大事にしていきたいし、もっとしっかりお笑いを提供していきたいなと思っています。

 

山本:新喜劇ってセリフがわかっていても笑ってしまう、老若男女問わず家族が一緒に笑える笑いは吉本新劇だけだと思います。やはり笑いの力は絶大ですね。やすえさんも女性で初めて座長を務めて特別講演など、新喜劇で大活躍されています。

これまで多くの笑いを届けてきたやすえさんですが、2020年3月に間質性肺炎という大病を患っていますね。1カ月くらい入院されていたそうですが。

 

未知氏:あのときは自分のなかで自覚症状がなかったんです。毎年、映薫姉さんと一緒に行っている「イミネーション」というディナーショーがあって、そのお稽古中にちょっとしんどくなって。声が出にくいし咳も出る。それでいつも行っている病院に行ってレントゲンを撮ってもらったら、肺の影が大きいと言われて「えっ!」となりました。その日に「すぐ大きな病院に行ってください」って言われて、なんのこっちゃわらないままカルテを持って行ったら「即入院してください」と。大変な病気だということはわかったのですが、すぐに入院は無理だったので、大事な仕事が終わるまでは延ばしてもらって、仕事もお休みをもらって入院した感じですね。

まさにコロナ禍の真っただなかで、街中がロックダウンの状態ですよ。劇場も閉まっているし、世間が全部止まっていたときの入院生活です。みんな家でおとなしくしている状況なので、座員さんらがメールで「治療に専念してください」というお見舞いのメッセージをくれました。だから、そんなに焦ることもなく過ごすことができました。入院も2カ月と言われていましたけど、1カ月で退院しましたから。

 

山本:ご病気になられてからご自身のなかで変わったなということとか、健康に関してこういったことを心がけているとか、いまこういうふうに生活しているなど、生活に変化はありましたか。

 

未知氏:まず病気のほうは「完治はしない」って言われたんですね。だから、とりあえずいまの状況を維持することに専念しました。入院している1カ月間は暇やから、病院の中を1時間ぐらい1日2、3回、ずっとウォーキングしてたんですね。でも、退院して家に帰ったときに、1階から2階に上がるのにも息切れがして、あらためて自分ってこんなに体力がなくなっていて、普通に生活するレベルでも支障があるんやなっていうのに気づきました。

やっぱり筋肉もかなり落ちていたんで、歩くのもしんどいから自転車を使っていたんですけど、止まるぐらいの漕ぎ方ですから、近所のおばあちゃんに抜かれていったりしてました。でも、そんなときも内場君がずっと後ろからついて走ってくれたり、ウォーキングも一緒に行ってくれたりしたんです。私の場合は病気で免疫力が低下していたので、コロナに感染してしまうリスクが高くなると言われていたので、誰にも会えないなかで内場君がずっといてくれて本当にありがたかったですね。

正直、いろいろなことがあったけど、あらためて主人の存在って大きいと思えたことが1つと、あとはやっぱり元気であればというか、さんま兄さんの「生きてるだけで丸儲け」っていう言葉が、私の頭のなかでグルグル回って、生きてるだけでありがたいことやなーって感じています。

コロナでもたくさんの人が亡くなっているし、私と同じ病気で亡くなった方もたくさんいらっしゃるなかで自分が生かせてもらってると思っています。命って1つしかないし、本当に感謝しかなかったですよ。

あとは、新喜劇って45分から50分の芝居をするので、初めは立ってるだけでもしんどいときもあったんですけど、そんなときでもちょっとの役をいただいて舞台に立てたことがうれしかったですね。

 

山本:震災のときのお話、ご自身のご病気のときのお話をうかがって、私たちも生かされているからこそ笑うこともできるのだということを実感しました。

実は私の両親は末期ガンで亡くなっていて、この仕事でも末期ガンの人の相談をされることがあるのですが、いろいろな免疫治療において必ず、「吉本を見ろ」と言われるらしいです。たくさん笑ったら長生きできる、くよくよ考えないで笑っているうちに元気になるよということで、母親も新喜劇を観てよく笑っていました。笑いを届ける人がいるということにあらためて感謝の思いを持ちました。

もともと日本人というは陽気な民族で、幕末期に日本を訪れたスイスのリンダウ領事官は「日本人ほど愉快になりやすい人種はほとんどあるまい。よいにせよ、悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子どものように、笑い始めたとなると理由もなく笑い始めるのである」と言っています。日本人と笑いは切っても切れないのかもしれません。やはりご先祖様から受け継いだDNAを感じます。ちなみに、やすえさんは普段どういうふうにご先祖様と接していらっしゃいますか。

 

未知氏:夫の話ですが、彼のお父さんはもともと九州の方で大阪に出てこられたので、九州の内場家は次男が守っていらっしゃるんですよ。お墓も全部です。だから福岡に営業に行ったときには必ずお墓参りには行くようにしていたんです。

でも内場の父も母も大阪で亡くなっているんで、内場君の判断で、誰でも納骨できる大阪の一心寺さんのところに頼みました。先ほど山本社長に聞いたら、こちらの霊園ではそことは違う方法があるとお聞きしたので、もうちょっと早く知っておけばよかったと思いましたよ。

 

山本:そうなんですよ。一心寺というのは合祀されるのですが、合祀とは字のごとく「合わせて祀る」ということで、いろいろな人と一緒に阿弥陀仏という骨仏に入るお墓です。ですから、いろいろな人の遺骨をひとまとめにされ混ざった状態になります。私たちの樹木葬やお墓は合祀しないやり方をしていて、ご家族だけで眠れる場所をつくっています。

 

未知氏:たしかに、ある程度年が経ったら遺骨が一緒くたになっちゃうみたいです。もちろんいまでも一心寺さんにお参りにも行きますけど、山本社長さんのところは家族だけでちゃんと一緒にいられるっていうお話で、それは知らん人が横におられたらかなわんなと思いながら聞いていました。

お墓が遠くにあるとなかなか管理するのも大変やし、私の友だちの間でもそういった問題で悩んでいるという話をしていて、山本社長さんのお話をお聞きして、お墓もそういう形に変わってきているんだということを知りました。初めてこちらの霊園さんに来たときに「あらっ、ここってパリなんですか」と言ってしまったくらいお墓のイメージじゃなかったんですよ。外観を見たときに可愛い幼稚園に来たのかなと思って中に入ったらヨーロッパ調の素敵なところで。

私はすごい恐がりなんで、お墓行くときも恐いんですけど、その感じがまったくなくって、こういうところだったらきっと子どもや孫と「お墓参りに行こう」ってなるんじゃないかな。お墓参りって家族でご先祖さんにお礼を言いに行こうっていう姿がいいですから。やっぱり家族が集まる場所にならないとダメですよね。

 

山本:お褒めの言葉までいただきありがとうございます。私も家族でいつでも気軽に来られる空間をつくりたくてこの仕事を始めました。とくに子どもがお墓参りに行こうと言ってもらえるような場所になることを目指しています。それが代々続いていく理想的な姿だと思っています。

さて、やすえさんも昨年還暦を迎えたということですが、とても若くて60歳を迎えたとは思えません。まだまだパワフルなお姿を拝見し続けたいと思いますが、念願の歌手デビューをされましたね。内場さんとのデュエット『ちぐはぐ最強夫婦』は目茶苦茶笑ったんですけど。

 

未知氏:そこ笑うとこちゃう、歌です。

 

山本:でも笑ってしまいますよ。それともう1曲、私は『めっせいじ』という曲に惹かれました。この歌詞を聴かせていただくと、やすえさんの生き方がまさにメッセージとして伝わってきます。とくに、人と比べないで無理に目標なんて持たなくていい、頑張りすぎなくていいという部分がいまの人たちにもすごく伝わってくるのではないでしょうか。

 

未知氏:ありがとうございます。あの曲の作詩は自分でしてくださいって言われたんですけど、詞なんて書いたこともなければわからなくて、最初は何にも浮かんでこなくて……。ただ、たまたまどこかでメッセージという文字を見たときに、「あっ、自分が伝えたいことを書いたらいいんや」と思って書き出したのがあの詩なんです。

よく皆さんは内場さんを思って書いた詩ですかって言われるんですけど、実際は娘のことを思って書きました。娘がちっちゃいときから学校で喧嘩して帰って来たときとか、いろんなことを思い出しながら書いたんですよ。それに自分自身に対しても、やはり病気になってからはとりあえず頑張りすぎなくてもいいし、休むときは休んだほうがいいなと思っているので、素直な気持ちですね。

 

山本:やすえさんのやさしさを感じる曲です。まさに活躍の幅を広げていらっしゃるやすえさんですが、これからのやすえさんのやりたい夢やこれからの活動をお聞かせください。

 

未知氏:私自身のイベントは50歳、60歳と10年ごとにしかしてないんです。次は70歳ですから、環境も自分の体力も変わってくるとは思うんですけど、でも先輩である浅香あき恵さんや末成映薫さんたちの背中に張りつくように頑張っていきたいなと思っています。末成映薫さんなんか77歳でまだまだ現役でお元気ですから。そんな先輩たちの姿を見ていると、やっぱり生涯舞台、生の舞台をやっていきたいなって思っています。

 

山本:ありがとうございます。ずっと現役で活躍されて、これからも多くの人に笑いを届けてほしいと思います。では、最後になりますけれど、いつものあれをやっていただいて締めていただければありがたいです。

 

未知氏:……なにぃ、おー簡単に、できるわけないやねん、なめとったらあかんぞほんまに、おい山本、いてもうたろうか、いっぺん頭スコーンってカチ割って脳みそストローでチューチューしたろうかー、ほんまに……恐かった~。