著名人との対談

VOL.47

桂ざこば 氏×山本一郎

先人たちが人生の師匠となり後継者を育てる

桂ざこば 氏×山本一郎

対談相手のご紹介

桂ざこば 氏×山本一郎

落語家

桂ざこば

zakoba katsura

落語家。1947年9月21日生まれ、大阪府出身。O型。1963年5月、桂米朝に入門。当時の芸名は桂朝丸。1966年、大阪・自安寺にて初の独演会『朝丸自身の会』を開催。1985年から翌年にかけ、『上方お笑い大賞金賞』、『日本放送演芸大賞奨励賞』、『大阪府民劇場奨励賞』を受賞。1988年4月、二代目「桂ざこば」を襲名した。レギュラー番組に毎日放送『ちちんぷいぷい』、読売テレビ『そこまで言って委員会』などがある。娘はタレントの関口まい。

対談の様子

山本:私はこの業界に入って、25年目なんです。もともと伝統とかそういうものがあるようでないような業界なんですが、お墓というものは、長く世界的にも伝統と文化がずっと続いています。今回、対談させていただきたいと思った理由に落語の世界は、練習と云わず、稽古と云い、伝統が引き継がれていることがあります。

現在の日本人が忘れかけているのが、そこではないかと思っています。

お稽古事をやっている業界というのは、絶対残していかなければいけない業界ではないでしょうか。

 

ざこば氏:やから師匠と弟子ですよね、師弟ですわ。昔は内弟子云うてね、師匠の家に住み込みして、一つの部屋で、ご飯も食べて、掃除もして、師匠のマッサージをやったり、たまには酒の相手をしたり、3年間師匠のところに入るんですわ。

 

山本:お寺の世界と似てますね。

 

ざこば氏3年入って、もう1年入るんですわ。ほんで4年なんですけど、もう長いから3年でええと云う人もあれば、まだもう1年とかね。それで師匠も手が足らんかったら、もう1年居といてくれ言うて、だからだいたい3年か4年なんですけどね。その3年の間に、いろいろ教えてもらうんですよね。落語も3年の間にだいたい、10席と落語を教えてもらうんですわ。1年間でだいたい3つぐらいかな。初めて内弟子なったのが枝雀兄さん、あの時はまだ小米(こよね)云うてましたね。千日前の千日劇場っていう寄席があってね。そこへ私が、たまに観に行ってたんです。けどね落語が面白くなかったんですよ(笑)。

まだ漫才とか、ものまねとか、そっちの方が面白かった。観てて面白いなぁ〜。落語になったら、ちょっとトイレに行こうってなってました。あんまり好きじゃなかったな〜。ところが米朝師匠だけは別でした。他の人は面白くなかった。ただ米朝師匠だけは、なんか違うな〜この人は違うな。なんやろう?僕も中学3年の時だったんですけどね、学校が嫌いで、いつも逃げてズル休みして、学校に行かなかった。それで、千日劇場の寄席をじっと見入って、米朝師匠を観て、漫才より、この人の方が良いで!ってなったのよ。

 

山本:出会いですよね。

 

ざこば氏:落語やなくこの米朝師匠が良いと、じっ〜と観てた。ある日、師匠の舞台をじっ〜と観てたら、背中からオーラがブワァ〜て、出てたんです。なんやこの人と思ってね、楽屋に行ってじっと待ってたんです。米朝師匠がすっーと出てきて、「今観てました。面白かったです。良かったです。ありがとうございます。」するとね師匠が、「あんた・・まだ中学生なのに背広を着てるんか〜」と、それで、「今日は土曜日でも日曜日でも休日でも何でもない、普通の日や、あんたなんで学校行かなあかんがな」と云われました。「はい。私、学校嫌いなんです。とにかくこういう面白いものを観たいんです。」師匠が「学校行かなあかんで。」それで師匠は、立ち去ったんですよ。この後、どうしようかと思ってね。よし、夜の部も観に行こうと思って、またじっと観てました。2回目観て、やっぱり良かった!また師匠を待ってたら、「ありがとうございました。良かったです。」そしたら、「君、1回目観てたんやろ、2回目もまた観てたのか?」と聞かれて「はい!ずっと見ておりました。」すると師匠がね。「そない好きなのか?」「いや、あんまり好きじゃないですよ。米朝師匠が好きなんです。

 

山本:米朝師匠は何と云われたんですか?

 

ざこば氏「そうか・・・ちょっとついてくるか」そんなこと云われたら、はいしかないでしょ。ついて行ったんです。ここで桂米朝は、「私今からコーヒー飲むけど、君コーヒー飲むか」と云ってくれて、中学3年生だったので、コーヒーなんて飲んだことなかったけど、そう云うしかないから、頂きますって云って、コーヒー頂きました。苦い、苦い。子供でしたからね。中三で初めてやもん。結局師匠が「あんたな。こんなん観てたらあかん、やっぱり学校行かなあかんで。」と云われたんですが、それでも学校さぼって、師匠の所ばっかり毎日行ってました。「そんなことではあかんで、これからはな、高校は絶対行かなあかんで高校へ、中卒ではあかんで高校へ行かな。そうでないと落語家にはなられへんよ、中卒では。昔やったらな、中卒で良いけど、最低高校は行かなあかんで。」そう云われたら私はね「はい。わかりました。高校へ行きます。」すぐに中学の先生に、高校に行きたいと云って、どっかないですか、行くとこ?先生には随分嫌われていたから、無い!云われました。それから米朝師匠のところ行って、「私は高校には行けません。そう先生に云われて、進学できないんで、これからどないしたら良いですか?」そうしたらね、師匠が「あんた落語家になりたいんか、ほんまの落語というものを観に来なさい。あんたどんな落語を聞いたことある?」そう聞かれたから「今日聞きました。」師匠が「いやそれだけではあかん。寿限無寿限無の話とか知ってるか?」そんなん知らんから「子ほめというのは?松鶴は知ってるか?春団治は知ってるか?」みんな知らないと云うと「あんたどんな話し家知ってるんや?」米朝師匠だけしか知りませんって云いました。

 

 

山本:米朝さん嬉しかったんじゃないですか?

 

ざこば氏:どうでしょうかね。あっちこっち行って、落語を見て回りなさいと云われましたね。本当に色々な落語を見に行きましたよ。下積み生活は、3年はしなくてはならないんてすよ。給料はなく、わかってる?お金はでないよって簡単に云われましたな。たまに親戚の人が来たら新しいお弟子さんですか?と聞かれて、500円くれたり1000円くれたり、そんな小遣いぐらいはいただきました。米朝師匠の家は、阪急電車の武庫之荘という駅があって、師匠の家で3年間下積みしたんですけど、そこに師匠の子供が3人居てたんです。今の米團治、がそのとき、まだ幼稚園でね。その下に双子の男の子がいて、この3人の子守もして、ちょうど3年間いましたね。

 

山本:そのときは、落語家を目指している他の人とは、一緒にならなかったんですか?

 

ざこば氏:まだ誰も居なかったですね。内弟子に枝雀兄さんが居てたんです。ちょっとの間だけ一緒に住んでいたんです。23ヶ月した時に、僕が来たから、枝雀兄さんは、2年で出ていって、僕が内弟子でずっと1人でやっていたんです。その後も何かわけのわからない弟子がやって来たけど、今、新しい弟子が居るんで、あんたは結構です。まだ1人居てますんで云ってくれて、僕が2年したときに、あと半年でもうしまいだと思っていたら、その時には師匠から朝丸という名前をつけてもらいました。お前が居なくなったら大変だから、他に要るなって話になって、それから次に入ってきたのが桂朝太郎で、今度は逆に僕が教えるわけですね。弟子というものはこういうものだと云って、だいたい7時頃に起きてきて、それで掃除に行って、それで奥さんにこれ買ってきて云われたら、市場行ってなんか買ってきて、師匠の部屋の掃除をして、庭掃除して、そんなことを教えてね、それから半年経ったとき、朝太郎にタッチや云われましたわ。ところが朝太郎は僕よりも歳上なんです。高校出ていたからね。それが一番内弟子の修行でした。

 

山本:落語の世界というのは、落語を教えてもらうのが一つですけれど、節分であるとか、いろんなことをしているではないですか。師匠の家のお墓参りにも、ついて行ったりしますよね。そういう古い伝統みたいなことは、必ず続けているのが内弟子制度ですね。

 

ざこば氏:そうですね。僕少しの間、枝雀さんの内弟子なりましたけど、あの人は毎日うどんばっかり食べてました!毎日、毎日。うどん飽きたら、次は毎日豆腐、豆腐と、好きになったら同じものを食べて、変わっているなぁと思いましたよ。

 

山本:内弟子時代を終えて、ウィークエンダーに出るきっかけは、どんなことでなったんですか?

 

ざこば氏:ウィークエンダーの前にね、テレビ三面記事っていうのがあったんですよ。ウィークエンダーと同じような番組でね。あれが最初のワイドショーかな。日本テレビだったんですわ。その中で、1人ぐらい大阪弁が欲しいということになって、私の師匠の米朝とプロデューサーが仲が良かったんでね。米朝さん新しい弟子の朝丸、あれ頼みます〜となって、番組がスタートしたんです。とにかくどこかで事件があったら、とりあえずお前行け、警察に行って調べて、その事件をやった刑事が居てるから、会って、とりあえず聞いてこい。そこで難しい事件はあかん。下着泥棒とか、今でいう反社会的組織の事件とかね。怖い~からと云ってもお前行け、わかったなと云われてね、駆け出しのときだったので、そんなのばっかりでしたわ。

 

山本:朝がワイドショーで、夜がウィークエンダーだったんですね。

 

ざこば氏:夜はね、エッチな再現ドラマするといって、プロデューサー気張ってましたね。

 

山本:あの当時、今で見たら可愛いものでしたが、話題になりましたよね。もう僕は、そこから師匠のことも、あの年代は、絶対に知っているんですよ、ウィークエンダー見て、師匠のモノマネみんなでして、それで、名前を襲名して変えられて、僕らの同級生とかは、未だに朝丸さんと言っていますね。それぐらいインパクトがありました。

 

ざこば氏:ウィークエンダーは結局クビになったんですよ。ちょっとスタッフと喧嘩したんですよ。東京のスタッフがね、おい朝丸って、呼び捨てにしてきて、腹立ってね。若かったのか、なんであんたに朝丸って呼び捨てされないとあかんのや。そんなこんなで喧嘩になって、スタッフが上司に云って、プロデューサーが、スタッフと喧嘩したらしいな、喧嘩したらあかんがなって咎められたんです。わしは、あんたは好きやけど、明日から来んでよろしいと云われて、クビになりましたね。

 

山本:そうだったんですね。それは知らなかったです。

 

ざこば氏:そんな話し、あんまり言えないからね。それで僕が辞めた後、やっさん(横山やすし)に代わったんですよ。やっさんも、23回やったら、タクシーの事件おこして、すぐクビになったんですわ。これは大変、大阪弁の枠がなくなったと。もう1度、帰って来いとなって、ウィークエンダーに復帰する事になったんです。

 

山本:師匠がいきなり呼び捨てで呼ばれて、怒ったことは理解できますよね。破天荒だった横山やすしさんも大好きだったんですけど、テレビを見ながら、子供ながらにいつもハラハラしました。いらん事云わないかな。やすしさん51歳で亡くなったじゃないですか。僕も54歳になったから、横山さんの歳を超える人生を送っていて、もっと見たかったと思っています。

 

ざこば氏:僕もやっさんには可愛がってもらいましたよ。もうお兄さんお兄さん言うてね。ええ漫才やったね〜やすしきよしは、もうきよしさんとやっさんだったから一番良かった。あの後、きよしさん

が他の人と漫才やっても、もう全然違う。

 

山本:ざこば師匠も、病気をされて体もいろいろ大変なことがあったでしょうけど、日本って今、長寿国家でありながら、もう寝たきりの人の数はすごいじゃないですか?僕の友達の奥さんの親が5日ぐらい前に亡くなったんですが、どうしたらいいかと相談を受けたんです。両親が島根に住んでいて、お2人とも施設に入っていて、相談されてから、すぐ亡くなったんです。島根っていうので、どうしたら良いか、島根で仲の良い葬儀屋さんがいて、偶然それがまた同じ地域で、ちゃんと見てもらえたんです。今、本当に長生きはしているけど、健康寿命は短く、元気なときはものすごく短くなっています。色々な問題がかなりあると感じるんです。残された家族にとっては、親しか知らなくて、お寺の付き合いとか、仏壇は?お墓はどうしたら良いのか、悪いサイクルが回っていて、コロナもあり、葬式はしない、やっても身内だけ。最初の話と違う世界に、寂しい世界にですね・・・一門が亡くなっていくような世界観が増えたように感じています。

 

ざこば氏:僕が脳梗塞になったとき、植物人間になりますって、もう落語家には戻れません。失忘症でもう喋られないですから、覚悟してくださいと云われました。

 

山本:そのときはお医者さんが云っていることは分かったんですか?

 

ざこば氏:奥さんと話をしていて、これから芝居の稽古があるから、電車で行く。珍しい、車で行くより電車で行く方が良いと云われたんです。実は台本覚えなあかんので、電車の中で覚えようと思ったんです。地下鉄で台本見ながら、ああこれか?覚えにくいな~難しいな、このセリフ難しいな。これ、誰が書いたんよ。これ違うよ。大阪弁で書いてくれないと、そんなことを思いつつ、台本読んでいました。難波に着いてラーメン食べようと思って、すすったら口に麺が入らない。どうしたんや。もうそのときに脳梗塞が始まっていたんですね。手が痺れて、手の自由が無くなってきてね。

 

山本:自分が脳梗塞にかかっているなど、誰も気づかないですよ。

 

ざこば氏:ラーメンが箸から落ちていくんやね。あれ〜?どうしたんや。自分は脳梗塞やけど、わかってないから、何も食べてないのにご馳走様って云ったから、店主もけったいな奴と思ったやろうね。店出て、歩いて松竹座の裏に楽屋口があるから、そこを歩いていたら、歩行者とぶつかるんですわ。あれなんでやろう、通行人がざこばフラフラやでぇ、昼間からお酒呑んで大丈夫か、そんな声が聴こえるんです。いよいよ稽古しましょうか?そしたらスタッフがざこばさん、顔が青いですよと云うから、俺は元気元気!いや、ちょっと青い。もうちょっと後からしますか。すぐやろうと云ったから、ざこばさんお願いしますという流れになったんですけど、ドーンと、一瞬で何もわからないようになった。救急車呼んで、病院に搬送されて、手術しはったんやろうけど、起きたら、なんでこんなところに寝ているんや。稽古は?白衣着た先生がいるんだと状況が呑み込めなかったんです。お医者さんから手術したことを聴き、勝手にしたらあかんがな。なんで手術したんや?とちょっと偉そうに云ってしまったんです。そこでお医者さんが、ざこばはん、脳梗塞ですと云われ、わし?!脳梗塞?!お医者さんが今奥さんと娘さんが来ていますと云ってくれたんですが、嫁と娘が誰か分からなかったんです。

 

山本:奥さんと娘さんは冗談だと思ったでしょうね。

 

ざこば氏:ちょっと待って、どこかで会った事ある?何を言うてるねん。嫁やがな。そうや!名前わかる!それが出てこない。娘を見て、あんたもどっかで会ったことある?娘やがな。そんなこんなで、先生がまた入ってきて、今日から落語家には戻れないです。植物人間になる可能性があると、嫁に云うとるわけです。明日から、とりあえず頑張ってリハビリですと云われ、リハビリに入ったんです。嫁はんがここ読んでと云っても、言葉が出てこない。半年間リハビリがあって、お医者さんからは、ここまで思い出せば大丈夫とは云われました。

 

山本:記事で読みましたが、脳梗塞になって落語の復帰は絶望的とか書かれていましたから、深刻な状況だと思っていました。

 

ざこば氏:元気そうに見えたらしいですけど、言葉を思い出すことが大変でした。

 

山本:今はお元気になられて、改めて落語の世界を見て、伝統文化を続けていくためには何が一番大切だと思われましたか?

 

ざこば氏:米朝師匠の云う通りやっていたら間違いない。師匠は自信を持ってはったしね。わしの云う通りにしていたら間違いないと、よく云ってくれたことが、とても大事だったと感じています。

 

山本:偉大なお師匠さんが云うことですね。僕らも偉大な師匠になって、後継者を育てていかなきゃいけないってことですよね。特に米朝さんから云われて、これは良かったなっていう言葉はありますか?

 

ざこば氏:お前は中学出て、すぐにうちに来たやろ。お前は子供みたいなものだ。お前は弟子やねんけどもな、お前だけはちょっと特別や。弟子やないお前は子供や、そうよく云われました。もうとにかくわしについて来い。わしの云う通りにしとけ。間違いない。もうそれです。

 

山本:ついて行かれて、米朝師匠すごいな〜と思ったこと、特にどんなことありますか?

 

ざこば氏:「お前中卒やったな。こんな難しい本読んでもしゃあないやろ。これぐらいの本ならな読めるな、これ見とけ」そう云われても、僕は本は嫌いやから、適当に読んだと云うと、米朝師匠が、「読んだか?」はい!「ほんまに読んだか?」読みました。ほんなら次、「これぐらいの本読めるやろ」はい。それを繰り返し適当に云っていると、「お前にあの本見とけ言うたな、お前あれ、ほんまに読んだのか?」はい、ほんまに読みました。「ほんまに読んだか?」もちろんです。「ほんならな、わしもあれ読んでるんや。出てくる登場人物、あれなんちゅう名前やったけなぁ?え〜と・・・あの人なんちゅう名前やったかな・・誰やった?」試されていたんですな、もう正直に読んでおりませんでした云うと、「そやろ、分かっとるわ」と云われましたわ。

 

山本:引っ掛けてくるんですね()。僕らは落語の世界とかめちゃくちゃ厳しくて、怒られたり、あると思ったんですけどそんなことはあまりなかったんですね。

 

ざこば氏:そうですね、やっぱり枝雀兄ちゃんなんかは良かったんですよ。米朝師匠が同じ所、3回やってくれる。枝雀さんはすぐ覚えるんです。僕は3回ぐらい教えてもらっても覚えられない。ほんで向こうではもうネタの本を読むな、テープを入れるな。私の云う通り覚えなさい。それでも覚えないかんわけです。3回で覚えろ、いや、もう1回お願いします。もう1回、4回教えてくれる。もう1回お願いします。もうなんべん言ったって一緒や。もうその通り喋って、僕は覚えが悪かったんで、悪いな。2階で、稽古していたんですけど、下に降りて一人で稽古するんです。で枝雀さんはもうすぐ、覚えているので、すぐにお稽古終わるんです。今度また、頭の良い子が覚えて、よう覚えたなお前、よっしゃここ行っときって、2階へ行って、この次また弱い覚えにくいやつがやって来て、覚えられなくて、もうええお前下行っとけとなり、覚えの悪い奴が下に集まって良いものが2階に集まる。米朝師匠の稽古ばっかりや。頑張って2階へ行きたくなって、朝丸、お茶持って上に上がってこいと云われ、お茶持って2階に行くと、お前そこにおれと云ってくれて、もの覚えの良いお稽古に入れてくれるんですよ。最後は物覚えの悪いものにも、あれこれ持ってこさせてお稽古を皆でしてくれ、厳しいけど今思い返すと優しかったと思い出します。

 

 

山本:良い文化ですね。

 

ざこば氏:良かったですよ。よそは知りませんよが米朝師匠ですよね。

 

山本:米朝さん亡くなって7年ぐらいですよね。

 

ざこば氏:それぐらいですかね。

 

山本:今日は貴重な話を聞かせていただきありがとうございました。改めて米朝師匠はいかがでしたか?

 

ざこば氏:僕からしたら師匠じゃないんですわ。親父みたいなもんですね。僕は親父が居なかったんです。小学校1年ぐらいのときに親父亡くなったんです。ほとんど親父を知らないんですね。桂米朝は師匠やけど、父親だった気がします。師匠であり先生であり親父でしたね。

 

山本:米朝さんと出会わなかったら、人生逆に全然違う、良い意味でも悪い意味でも・・

 

ざこば氏:よく皆さんに云われました。君は米朝師匠の弟子になっていなかったら、おかしなっところにいって、おかしな人生過ごしたぞと、多くの方に云われました。

 

山本:その出会いも大きかったと思います。引き寄せられたんですよね。今日はありがとうございました。

 

ざこば氏:こちらこそ、ありがとうございました。

 

 

ハピネスパーク牧野霊園 千年オリーブの前にて