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vol.27武藤好男 氏 × 山本一郎

武藤好男 氏 × 山本一郎

最終的には教わるのではなくそれを突き抜けたところに芸術があると思います。

武藤 好男 氏

武藤 好男 氏の紹介

京都府出身。大阪音楽大学大学院作曲専攻修了。同大学講師、助教授を経て教授。2012年から学長。学校法人の常任理事も務める。これまでに作曲した作品は室内楽を中心に約100曲。好きな言葉は、「優しくなければ生きていく価値はない」、「LOVE, PEACE&MUSIC」。

『伝統は継続するもの、文化は積み重ねるもの』

山本:

弊社はお墓造りの仕事をさせていただいております。音楽とは無縁だと思われるのですが、最近、京都や奈良のお寺で演奏会や音舞台が行われていて、それを見て、弊社の霊園で11年前から毎年8月15日の夜に演奏会を行っています。お墓の中で演奏会をすると言うと、みなさん不思議に思われます。ここ数年は大阪音楽大学を卒業された方に演奏をしていただいています。リピーターになって毎年演奏会に来てくださるお客様もおられ、大変好評です。今後もこのような機会を続けて、広げて行きたいです。そのようなことがあり本日は対談をしていただくことになりました。よろしくお願いします。

 

武藤氏:

そうなのですね。昨年、京都の泉涌寺の音舞台に私も行ってきました。オーケストラも入っていて、本学卒業生の西本智実氏が指揮をされていました。たまたま彼女の大学時代に私が教えていて、この度招待されました。

 

山本:

西本さんはバチカンにも招聘され、大変ご活躍されていらっしゃいますね。

 

武藤氏:

元々、音楽は宗教と結びついていますので、ヨーロッパはキリスト教の国が多く、ミサと音楽が宗教儀礼としてつながっています。日本では、仏教で僧侶が唱える声明や宮廷・神社には雅楽があります。ヨーロッパの場合、中世ルネッサンス以降、神を頂点とする階層がなくなり、さらにフランス革命以降に個の確立が進む中で、アートが宗教と切り離されてきました。個を表現していく過程で、科学技術の発展もあり、次々に新しいものを創っていかなければならない時代背景の中で、芸術も発展していきました。

 

山本:

私が、様々なことに挑戦していこうという考え方とヨーロッパの影響を受けて、お墓も洋風に、霊園内にバラを500株近く植え、スペインから取り寄せた約200年前のオリーブの樹を植えたりしています。近年お墓離れが進んでいて、暗く、怖く、場所が不便というお墓のイメージがあるようで、反対にいつでもお墓に来たいと思う空間づくりに取り組んでいます。

 

武藤氏:

現代は人間の本質が変わってきていて、何でもお金に換算してしまう時代になっていると感じます。お墓に対してもそういう面があると思います。学校では、芸術は教育の中で教わるものですが、個人が超越した何かを表現するには、最終的には教わるのではなくそれを突き抜けたところに芸術があると思います。いくらすばらしくても、それが芸術になるかどうかはまた別の問題です。ふつう人間は生まれる時も、死ぬ時も、親も自分で選べません。自分でコントロールができないところに、何かそういう超越したことを感じる部分があります。

 

山本:

昔もそういうことはあったのでしょうか。

 

武藤氏:

宗教的感覚が私にはよくわからないところもあるのですが、私たちは日本人ですから、その伝統のなかで生きているということがそのまま日本の表現につながっていると思います。また、それは日本の自然と宗教からの影響が大きいと思います。

 

山本:

フランスに行ったときに、ショパンのお墓参りに行ったことがあるのですが、確か心臓はポーランドに、ご遺体はフランスに、いまだにお墓参りにいらっしゃる世界各国の方々が多くて驚きました。芸術を極めると人々の心に大きく影響を与えていることがわかります。

お墓についてはどう思われますか。

 

武藤氏:

先ほどお話ししましたように、人間は生死の場所も時間も選ぶことはできず、たまたま生かされているなかで、無理にいろいろなことをやる必要はないと思っています。私も先祖代々のお墓はありますが、死についてあまり考えたことはありません。正直お墓参りにもあまり行けていません。ただ人間というのは関係性の中で生きていて、ひとりだけでは生きていけません。やはり人が生まれて、周りの人が喜ぶ、人が亡くなったときには思い出としてモニュメントを残していくことは意味のあることだと思います。最近、お墓の面倒が見られないということもあり、永代供養が増えてきていると聞いています。お葬式やお墓に以前ほどお金をかけなくなる傾向もありますが、人間は効率だけで生きているのではないので、当然心の問題はあると思います。

ヨーロッパの音楽は論理的で、起承転結のストーリーがあります。儀式ではその場の雰囲気を作る環境が大切で、僧侶の方にお経をあげていただいているときは、お経の内容がわかるというよりは、ひとつの瞑想状態を作ることが重要な気がします。インドの音楽ラーガなどアジアの民族音楽にも同様の感じがします。

 

 

山本:

ヨーロッパでは早くから樹木葬が行われ、受け入れられています。お墓がなくなるというよりは形を変え、多様化していくと予想されます。宗教的にインド、ネパールでは川に流してしまうので、お墓がなくなっています。ヨーロッパにはよくお墓を見に行くのですが、年々お墓が小さくなっています。大きなお墓を建てているのは中国くらいかもしれません。台湾もスリム化しています。そういう世界的な流れがあると思います。そう言えばモーツアルトも共同墓地に眠られています。

 

武藤氏:

そうですね。共同墓地に入られていて、どこがモーツアルトのお墓かよくわからないような。でもそれもいいのではないでしょうか。バッハは、生涯国外にも出ませんでした。バッハの時代の作曲家はある意味職人で、モーツアルトの時代に職業としての作曲家、芸術家が誕生します。それがベートーヴェンの時代になると、これが俺の音楽、他人は文句を言うなというような、独創的な創作の時代になりました。実はベートーヴェンは、作曲家にとっては一種の呪いです。それまで音楽の主流はオペラで、お金もかかり、宮廷や王様の前で演奏するのが一般的でした。ベートーヴェンは音楽が市民階級に開放される中で、音楽で一番偉いのは言葉がないシンフォニーだという現代につながる考え方を確立しました。

音楽は言葉がないので、抽象性が高く、19世紀末にすべての芸術は音楽に憧れるという現象が生まれます。音楽には、音楽のなかでひとつの論理があります。宗教は論理ではなく信じることから始まるのですが、原因をどこまでもさかのぼり究極の原理は何か、それがキリスト教の神です。あとはその神を信じるか信じないかということになると思います。

 

山本:

ところで大阪音楽大学では、音楽といっても1つでなく、ミュージカルやピアノと分けていったら数多くの分類になりますね。

 

武藤氏:

そうですね。ポピュラーといえば資本主義、商業主義と当初から密接に結びついています。19世紀末、ラジオや、レコードなどの複製ができるメディアができたことで、大衆に受け入れられ売れることが前提の音楽ジャンルが成立します。それがいいとか悪いということではなく、それまで音楽は宮廷や教会で生でしか聴くことができませんでした。音は鳴ったら消えてしまいます。音を聞くためには音の出る場所に行かなければ聴くことができない。市民階級に音楽が普及していったのは、印刷技術が発達し、楽譜が普及し、それを各家庭で演奏する、演奏するためにピアノが普及するという段階を経ています。

また音楽は、音律をどう決めるかが大事です。ドレミファソラシドという世界標準の音律はピアノが普及するとともに一般的になります。まだ録音する機械がない時代に、楽譜を購入して自宅のピアノで演奏する。そうするとピアノが大量生産されるようになり、音律を合わせないといけなくなる。ある一定のルールで音律が合わせられるようにしておく必要が出てきて、それが世界標準になっていく。いわゆる平均律になります。

 

山本:

私たちの世代とその少し下の世代をパッケージ世代、つまりCDやDVDを買ってそのジャケットを見ながら楽しむ世代。一方、平成生まれは、パッケージはいらないので曲をダウンロードする世代と世代のギャップを感じています。このように見ると大変チープ化が進んでいると思っています。

 

武藤氏:

音楽が録音されること自体が変なのかもしれません。ただ複製技術が発達することによって、録音が当たり前の時代になっています。かつては、マーラーを聴くとき、ハイドンがいて、モーツアルトがいて、ベートーヴェンがいて、ワーグナーがいて、マーラーの音楽を歴史的文脈の中で聴いていました。それが今では歴史的コンテキストから切り離されて、1つのコンテンツでしかなくなっています。現在は自分の好きなものは、手軽にピンポイントで情報を得ることができます。様々なものが、それぞれ独立して相互の関連性がないという考え方が普通になっているのではないでしょうか。文化は積み重ねなので、初めてシンフォニーを聞いただけでは、絶対にわかりません。コマーシャルでクラシックの楽曲の一部分だけを使うのは邪道だと思います。しかし私たち自身が、そのことに慣らされてきています。それぞれの世代にはそれぞれの音楽の聴き方があってもいいとは思いますが、私たちの世代から見ると残念な気がします。

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