著名人との対談

VOL.64

野村忠宏氏× 山本一郎

オリンピック3連覇後、40歳まで現役を貫いた柔道人生で得たもの

野村忠宏氏× 山本一郎

DIGEST

野村忠宏氏× 山本一郎

対談相手のご紹介

野村忠宏氏× 山本一郎

柔道家 / 株式会社Nextend代表取締役

野村 忠宏

Tadahiro Nomura

1974年生まれ奈良県出身の柔道家。八段。

祖父は柔道場「豊徳館野村柔道場」館長、父は天理高校柔道部元監督という柔道一家に育つ。

1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピックで2連覇を達成。2年のブランクを経てアテネオリンピック代表権を獲得し、2004年アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成する。

2013年に弘前大学大学院で医学博士号を取得。

2015年829日、全日本実業柔道個人選手権大会を最後に、40歳で現役を引退。

東京2020オリンピックでは聖火リレー公式アンバサダー、そして開会式が行われた国立競技場での聖火ランナーを務める。

現在は、自身がプロデュースする柔道教室「野村道場」を開催する等、国内外にて柔道の普及活動を展開。

また、テレビでのキャスターやコメンテーターとしても活躍。自身の柔道経験を元に講演活動も多数行っている。

2025年1月からは目黒区青葉台に鍼灸接骨院と鍼灸接骨院とピラティススタジオを併設したコンディショニングラボ「Nom-Lab.(ノムラボ)」を設立し、ウェルネス事業にも取り組む経営者としても活躍している。

対談の様子

山本:野村さんはおじいさまが豊徳館野村柔道場の館長、お父さまが天理高校柔道部の監督と、本当に柔道一家という環境の中にいらっしゃいました。やはり子どもの頃というのは、柔道一筋として生活されていたんですか。

 

野村:本当に生まれたときから柔道があって、自宅の横に道場があるという環境でした。ですから自然と柔道を始めましたが、小学生ぐらいまでは生活すべてが柔道というわけではなく、ほかに水泳や野球、サッカーといろいろなスポーツをやっていましたね。
 もともと母親が学生のときに競泳の背泳の選手として日本一になって、引退後はスイミングスクールのコーチをやっていました。だから、母親についていくような感じで2歳から水泳をやっていました。
 ほかにも小学校の週に1回の放課後に行うクラブ活動ではサッカー部に入っていましたし、田舎でしたから少年野球にも入っていたという感じで、4つのスポーツを並行してやっていました。
 柔道一家に生まれたんだから柔道を頑張って強くなりなさいとは言われたこともなく、やらされているというような感覚や、やらなきゃいけないという感覚もなくて、いい意味で柔道にどっぷりという感じではなかったです。
 そうやっていろいろなスポーツをやる中で、実際に柔道が一番自分の中で楽しかったし、夢中になれて最終的に中学で柔道を選びました。野球やサッカーといったチームスポーツは、自分がミスをすることでチームに迷惑をかける、自分がチャンスをつくれなかったなど、自分のパフォーマンスがチームに影響する競技で、だったら勝つも負けるも自分次第の個人競技のほうが自分に向いている。性格的にも柔道が自分に一番合っていたんだと思います。

 

 

山本:お母さまが競泳の学生チャンピオンだったというのは驚きです。小さい頃からさまざまなスポーツをすると、どんなスポーツでもバランス感覚に優れるらしいですからムダということはないんでしょうね。
 野村さんは中学生で柔道一本ということで、そこからはオリンピックという目標に向かっていったのでしょうか。

 

野村:いえいえ、オリンピックなんて本当にあこがれだけの存在でしたよ。子どものときに「柔道で世界一になる」という未来の自分への手紙を書いたのですが、あくまでそれは子どもが見る夢であって、実際には雲の上のような世界でした。
 柔道一本という厳しい環境に身を置くために天理中学の柔道部に入ったのですが、1年生の最初の市民大会の試合で同級生の女の子に負けたんですよ。高校進学のときは天理高校の柔道部に入りましたが、すでに監督を退いて師範の立場だった父親からも、「無理して柔道をしなくていいぞ」と言われたくらいでしたから。だから、柔道が強かったということでその道を選んだわけではなかったですね。
 私は体も小さくて、中学時代は県大会でも勝てない。高校時代も、当時はバルセロナの古賀稔彦さんや吉田秀彦さんといった人たちがオリンピックで輝く姿を見て、格好いいなというあこがれはありましたけれど、あまりにも実力が違いすぎて、さすがに夢でも描けない世界ではありました。

 

山本:中学生の初めての大会で女子選手に負けてしまったというのは驚きのエピソードです。中高では芽が出なかったということですが、野村さんにとってオリンピックが実際に見えてきたのはいつくらいからでしょうか。

野村:現実的な目標としてオリンピックに出たいとか、自分がそういう選手になれるかもしれないという可能性を感じ始めたのは大学2年生ぐらいからですね。その年の全日本学生体重別選手権の決勝戦で戦ったのが世界選手権のチャンピオンになっている方で、その方に一本勝ちしたというのが大きかったですね。
 自分がそうやって少しずつ結果を残せる選手になったことに対する喜びや自分が変われたという喜びを感じながら、戦うフィールドが段々高まっていく中で目指すものが大きくなって、体力や技術、精神的な部分すべてを高めていかなければならないという苦しみも同時に芽生え始めた時期ですね。
 ただ、いつか自分は強くなりたい、周りから期待してもらえるような選手になりたという思いがずっとありましたし、それを描ける自分になれたことのほうがうれしかったですね。
 そこからオリンピック代表に選ばれたのが2年後の大学4年生のときで、そこからオリンピック本番までの3ヶ月はものすごくプレッシャーはありました。とくに私の場合、楽観的なタイプではないので、プレッシャーをしっかり自分の中で受け入れて、それを乗り越えていく苦しさとの闘いでした。
 代表に選ばれたということは金メダルを期待されているからであって、アスリートとして勝負の世界で生きている以上は、多くの人に応援してもらっている自分がいる。だから、喜びかプレッシャーかと言われれば、やはり喜びのほうが大きかったですね。

 

山本:そんな喜びとプレッシャーの中で、実際にオリンピックの話をうかがいます。野村さんのご著書『戦う理由』(ワン・パブリッシング刊)を拝読しながら勝手な想像をしたのですが、オリンピック3連覇は必然だったのではと思うほど、それぞれのオリンピックでの出来事があったのではないかと思います。
最初のアトランタでは、その前のバルセロナ金メダリストの古賀稔彦さんや吉田秀彦さん、銀メダリストの小川直也さん、田村亮子さんがいて、メディアでは野村さんの金メダルは注目されていなかったという……。

 

野村:まったくその通りです。もちろん柔道界では野村っていう若いのが出てきたぞとは言われていましたけれど、世間的に注目されるのは金メダル候補と言われる前大会のバルセロナで活躍した選手たちでした。ですから、アトランタでの私に対する注目度、期待値は高くなかったです。
 公開取材日では、記者の方がお目当ての選手に取材に行くのですが、私ともう1人、1つ年上の中村兼三先輩の2人は、世界初挑戦だったので、取材依頼も本当に少なく寂しいなって愚痴っていました(笑)
 4年後のシドニーのときは田村(谷)亮子さんのオリンピック3回目の挑戦での悲願の金メダル獲得ということで話題の中心になりました。彼女は中学生ぐらいから彗星のごとく女子柔道界に誕生して、マンガ『YAWARA!』の相乗効果もあって、ヤワラちゃんとして
国民的なスターになっていましたから。
 ただ、本当にしんどかったのは、田村さんが金メダルを取ったあとの試合が私の試合だったんですよ。しかも、当時の男子柔道に関しては軽量級より重量級の注目度のほうが高かったので、2連覇しても彼女に話題をさらわれてしまいました。ただ、技術的にも一番充実していた時期だという自負はありましたね。

 

山本:柔道軽量級でオリンピック2連覇は史上初の快挙ですが、ヤワラちゃんと男子軽量級ということでトップあつかいにならなかった。だからこそ誰もなし得なかった3連覇が必然だったと感じます。
 アテネオリンピックでは、日本柔道の金メダルは8個(注:男子3、女子5)という快挙の中、野村さんが前人未到の3連覇としてメダリスト全員を引き連れたというぐらい、ものすごく感慨深いものが私はありました。

 

野村:試合日程は軽量級が初日でしたが、その初日で私と田村さん(注:当時は谷亮子)が登場して金メダルを獲得しいいスタートが切れました。実はアテネ入りする10日前、乱取りの最中に相手の頭が脇腹部分を直撃して肋軟骨を痛めて数日動けないという怪我をしたんです。マスコミにはそのことを伏せてもらって試合に臨みました。怪我が言い訳となって同情されると、それに流される弱い自分がいることを知っていましたから。
 オリンピック出場の際は父親から手紙をいただくのですが、そこには「執念・平常心・無心」とつづられていました。怪我を承知で勝負することを選んだ時点で「執念」は常に心の中に持っておかなければならないと思ったのです。3連覇というこれまでにない重圧の中、父の手紙を読みながら恐怖に打ち克っての金メダルでした。
 それに、何にもまして感謝しなければならない方がミキハウスの木村皓一社長でした。シドニーで2連覇を達成後、引退して指導者の道を進むか、その後も競技を続けるかという選択を迫られました。
 私はいったん柔道を離れて2001年に結婚した妻と海外で生活し、環境を変え、しっかり自分と向き合い決断したい、海外留学をして視野を広げたいと木村社長に相談すると、「それなら、ミキハウスで面倒を見てあげるので行ってきなさい」とサポートを約束してくれました。
 このことは本当にありがたいことでした。私は妻と一緒にアメリカ・サンフランシスコに留学しました。柔道を離れて解放感のある生活はそれなりに充実していましたが、柔道への渇望感が沸々と湧いてくる自分もそこにいました。結局、1年間暮らす予定でしたが、半年後には現地でトレーニングを再開して、帰国を2カ月早めてアテネへ向けて再始動を開始しました。
 アテネに間に合う期間を逆算しての帰国でしたが、2年間のブランクで復帰後の試合ではなかなか勝てず、2連覇というプライドを捨ててがむしゃらに柔道に打ち込んだ末に勝ち取った日本代表でしたね。
 3つのオリンピックを振り返ってみると、最初のアトランタは若さと勢いで取った「体」、シドニーは全試合で異なる技で勝った「技」、アテネは二年間のブランクや挫折を乗り越えた経験と強い「心」で優勝し、自分の柔道が1つ形として完成したと思っています。

山本:「体・技・心」と、まさに3連覇の極意のような言葉に感嘆しました。私は野村さんの絶対的な強さの中で生まれたものだと思っていましたが、順風満帆な道のりではなかったのですね。しかも、アテネでは怪我を隠しての金メダル。野村さんのお話をうかがっていて、自分との戦いがどれほど過酷であるかということを感じずにいられません。
 3連覇のドラマだけでも野村さんのすごさが伝わってきますが、4連覇を目指し、そこから10年間競技者として続けてこられたという事実も想像をはるかに超えています。いったい、その原動力はどこにあったのでしょうか。

 

野村:それはシドニーからアテネの間の4年間の経験が自分の価値観を変えたなというふうに思っています。過酷ではありましたがやりがいがあって、3連覇を目指したい自分もいましたが、実際はアテネまでの4年間、心も体ももつのかなという思いもありました。2連覇で最強のままで引退したほうがいいのではないかと。続けるということは負ける覚悟も持たなければならない。2連覇した野村が負けたら周りからも批判される覚悟も持たなければならない。アテネに向けて勝つ自分と負ける自分の両方をイメージするわけです。
 それが自分の中で「よし、やる!」と心が決まるまで2年間かかり、そのうちの1年は海外に行って柔道から離れたことによって、あらためて自分にとって柔道とは何かというものが見えてきた。3連覇は本当は最高の辞めどきだったのかもしれない。だけど、自分の柔道が見えてきた中で、4連覇にロマンを感じたんですよ。
 その当時は円盤投げのアル・オーターと走り幅跳びのカール・ルイスの2人しか達成していない4連覇で、1%でも可能性があるならば挑戦しよう、しかも3連覇した人にしかできないことですから。だから、辞めたいと思わなかった。挑戦したいと思ったんです。
 しかし、北京オリンピックの1年と少し前に、乱取りの練習中に右膝前十字靭帯を断裂という選手生命を脅かす怪我をしてしまったんです。手術をしていては北京には間に合わない。私は靭帯が切れたままリハビリとガチガチのテーピングで練習を再開しました。
 あのときは、初めて妻に涙を見せました。結局、北京の代表には選ばれなかったのですが、怪我をかばって思うような柔道ができないまま終わってしまった自分が情けなく、悔しさでいっぱいでした。それなら手術をして再起をはかろう、納得のいく野村の柔道をしようと、引退のイの字も考えない自分がいました。33歳のときでした。
 その頃、2009年4月から弘前大学大学院で4年間スポーツ医学を学び、博士号も取得しました。その間、コンディショニングを学び、新たなフィジカルトレーニングを積んできましたが、怪我に次ぐ怪我で、2010年11月の講道館杯に一本負けを喫してロンドンオリンピックの夢は潰えました。
 怪我さえなければ……。私は、今度は切れてしまった右肩の腱の手術をして現役を続けました。しかし最後は、2014年に左膝の半月板と軟骨を損傷。さすがに引退というネガティブな考えに陥りました。
 そんなある日、実家の道場に足を運び、めったにしない柔道の話を父としました。そのときの父の言葉が胸に響きました。
「こんなにも長く現役で頑張り続けている柔道家はおまえしかいない。たとえ親バカだと言われても、そういうおまえを誇りに思う。ここまでやったんだ。もう、とことんやって最後は胸を張って引退したらええやないか」と。
 涙があふれて止まりませんでした。あの言葉があったからこそ、とことんまでやってやろうという原動力になりました。私は3度目の手術を行い、たった数%の希望と期待で自分の柔道を追い求めました。
 翌年の2015年8月に引退を表明する40歳まで自分と戦い続け、柔道を全うできたのも、わがままを承知でサポートをしてくれたミキハウスの木村社長や、30年間ずっと見守り続けてくれた両親、どんな困難にあっても支えてくれた妻、そして多くの方々の応援があったからこその現役生活だったと感謝しています。

 

山本:ここまで野村さんの柔道人生をおうかがいしてきましたが、お父さまは野村さんの柔道人生をずっと見守り続けてきたのですね。本当に心の支えでもあった方だったと思います。そんなお父さまが2026年4月に亡くなられました。つらい話ではあると思いますが、父として指導者として、野村さんはお父さまと人生をどう歩まれてきたのかというお話をお聞かせいただければと思います。

 

野村:父は4月25日に他界しましたが、もともと柔道選手としてはそこまで名を馳せた選手ではなかったんです。それが引退して天理高校の指導者になってからは、高校柔道の指導者として何度も全国大会で優勝をする名監督と言われるような存在でした。けれど、1つ上の兄にも私にも、柔道のことをほとんど言わなかったですね。その距離の取り方というのが本当にうまい人でした。
 高校の柔道部の監督を辞めたのも、兄が天理高校の柔道部に入部したときに、息子が入ってきた以上は監督はできないというので辞めたんですよ。
 細川伸二先生は天理大学の柔道指導者として大変お世話になった方で、ロサンゼルスオリンピックの60キロ級で金メダルを取った方ですが、細川先生も高校時代は父の教え子です。
 父は細川先生に、大学の柔道部に息子が入ったのでお任せしたい。お任せした以上、自分は口は出さないという感じで、もっとああせいこうせいといった技術的なことをほとんど言われたことがありませんでした。
 そういう父だからこそ、オリンピックの前に、私にかけてくれる言葉や手渡してくれる手紙がものすごく心に届きました。プレッシャーの中、試合前に何度も手紙を読んで自分を奮い立たせることができました。ふだんはほとんど柔道のことは言わないし、会っても「元気か」「頑張っているか」「怪我はないか」といったひと言でしたが、手紙を見るたびに、いつも自分を見てくれていたんだという感謝の気持ちがありました。
 中学生になって私が真剣に柔道一本に打ち込むようになってからは、父というより野村先生ですよ。父にはずっと敬語でしたし、学校で会っても「野村先生、こんにちは」で、家にいてもおとんとか呼べない。普通の家庭の父と子の関係とは少し違いますが、柔道を通しての心のつながりや、指導者としての父への尊敬、ここまで柔道を好きになれた環境をつくってくれた父に対して感謝する気持ちは常にありましたね。

 

山本:お父さまのお話をうかがっていると、やはり名指導者なんでしょうね。お父さまが亡くなられて、お弟子さんも数え切れないほどいらっしゃったと思うんですが、実際にどんなお別れだったのですか。

 

野村:2026年に入った頃から病気も見つかり、足も悪かったので入院生活が続いていて、いつそういう事態になってもというのは何となくわかっていたので、見舞いに行けるときはなるべく行っていました。だから、ある程度受け入れる覚悟はできていました。
 両親には、自分が受けた恩は何かをしたから返したというものではない、受けた恩は一生だとずっと言われてきたので、自分は師である父に対して恩返しとか親孝行ができたかわからないですが、自分ができる限りのことはできたのかなと思っています。
 父の亡くなる前日も見舞いに行けたのですが、亡くなる直前でも本当にプクッとしたままで肌の色つやもよくて、変わらぬ姿のままで逝くことができました。亡くなった寂しさはありますが、いまは「ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいです。

 

山本:これまでお話をうかがってきて、幼少からさまざまなスポーツを経験し、その中で大好きだった柔道を選び、体が小さいながらも挑み続け、ついにはオリンピック3連覇を果たした。そして、その後も野村の柔道を追い続けた。これほどの親孝行はありません。これもひとえに、お父さまが野村さんを見守り続けて得た柔道人生だったのではないかと思います。そんな野村さんが、これからの人生、どう歩み続けるのでしょうか。

 

野村:人生というものを考えるきっかけとなった出来事があります。それは2022年にNHKの『ファミリーヒストリー』という番組に出演したんですが、2人の祖父のヒストリーを知ったことでした。
 いわば野村家のルーツなんですが、父方の祖父は農業をしながら人を育てることに尽力した人で、柔道を通して人を育てるということで道場を始めました。いっぽう母方の祖父の歴史を紐解くと、戦時中に満州で通信系の仕事をしていたようで、敗戦のときにシベリアに抑留されて亡くなりました。母は1歳のときに父と生き別れ、祖母と一緒に満州から引き上げて来たそうです。食料も着るものもろくになく、周りの人の助けがあって、命からがら日本に帰って来たということを知りました。
 そんな歴史があっていまの自分がいるということ、父方の祖父が道場をつくり、母方の祖父は亡くなりましたが、母が生き残ってくれたから自分が存在する。柔道が好きになって、柔道に打ち込んでこられた自分がいるのも、そうした命の尊さをあらためて感じた出来事でした。
 そうした2人の祖父の精神というか、それまでの歩みがあるからいま、自分がいる。ルーツをあらためて知ることで、より感謝の気持ちが深くなりました。ですから、これからの人生もやはり柔道とはずっと関わっていたいという思いはあります。私が祖父から与えてもらった柔道の楽しさを子どもたちに伝えていきたい。
 たとえば、小学生のときに父の顔を立てて山下泰裕先生がうちの道場に来てくれて、「頑張れ」と言ってくれたことがありました。そういう経験を子どもはずっと忘れません。また、そうした経験が柔道が好きでいるモチベーションにもなります。
 ですからいま、「野村道場」という柔道イベントを主催して、柔道の楽しさはもちろん、礼儀、礼節を伝えています。あとは子どもがあこがれを抱くようなトップ選手たちとの交流の時間もつくっています。彼らと一緒に組み合って、楽しい時間を経験してもらう。そんな出会い1つで、子どもたちに希望を持ってもらえればと思っています。
最近ちょっと勝てないから辞めようとか、先生が恐いからもう柔道はいいかなとかという子どももいると思います。でも、柔道が好きで続けられた自分のように、まずは柔道の楽しさを知ってもらい、そんな中から、いつかオリンピックを目指したいと思うような子が出てきたらうれしいですね。

 

山本:まさに人を育てる精神のもと、おじいさまが始めた道場は野村さんがその精神を引き継ぎ、お父さまがただ見守り続けるといった指導も引き継ぐという、柔道の精神を築き上げていかれるように感じます。きっと素晴らしい指導者になられることと思います。
本日はありがとうございました。