VOL.63
岩下尚史氏×山本一郎
還暦を迎えた途端に心不全で手術。難病指定患者になった、これからの生き方

対談の様子
山本: 岩下さんといえば歌舞伎や芸者の世界など、いわゆる伝統芸能に精通された第一人 者です。昨年は映画『国宝』が異例の大ヒットでしたが、多方面から取材が舞い込んだの ではないでしょうか。
岩下氏: はい、メディアからの問い合わせは複数回ありましたが、未だ、見てはいないんですよ。なにしろ、大当たりを取ったでしょう、なかなか好い席が取れませんので、つい。
それにしても、原作の小説の『国宝』という標題は見つけものでしたね。歌舞伎を知らない人でも、と云うか、知らない人ほど映画を見る前から、なんの説明なしに梨園のトップらしい存在を思い浮かべるでしょうから。
これが『日本俳優協会会長』てなタイトルだったら、大衆の心を掴む芸道物にはなりませんものね(笑)。やはり、次から次に映画化されてヒットする小説の作者だけあって、その勇気に偉いなぁと大いに感心しています。
といって、歌舞伎に限らず、「伝統芸能」と称される能楽や文楽に対する世間の見方も近ごろは温かく、敬意すら感じられるようになりましたね。戦後復興の高度経済成長期に花柳界の婦人たちの商売道具としてはもちろん、大衆の趣味あるいは道楽として流行した仕舞や謠曲、日本舞踊や三味線音楽……昭和後期の稽古人口は、茶や花とおなじく平成以降には激減していることを思うと、伝承的な芸能と離れた現代人の節度ある敬遠なのかもしれませんけれども。
門閥を重視する「伝統芸能」は家元制度ですからね、私などが十代の頃までは封建的だと批判あるいは蔑視する進歩的文化人も少なくはありませんでしたが、大衆による稽古人口が少なくなるにつれ、むしろ芸術鑑賞を目的とする、教養高いインテリたちが「伝統芸能」の味方になった観がありますね。
私が若い頃の歌舞伎座、新橋演舞場、あるいは国立劇場でさえ、大型バスで運ばれる歌舞伎に未知なる団体客が多く、見巧者といえば新橋、赤坂、柳橋をはじめとする高齢の名妓たちが審査員のような厳しい顏をしているほかは、好い心持ちに居眠りをする観客がめずらしくはありませんでしたが、近ごろは団体客が減った代わりに、自身で切符を買って入る観客が多いようで、皆さん、最初から最後まで熱心に舞台を見詰めていますよ。私などは昔と変わらず、見たい役者だけを見て、あとの幕は捨てて帰りますけれども。
しかし、近ごろの観客が鑑賞に熱心なのは結構ですが、舞台を見て泣く人は少ないですね。場違いなところで、何が可笑しいのか、ゲラゲラ笑う人が増えました。
狂言は別として、能も浄瑠璃も歌舞伎も仏教の唱導に根差す芸能ですから、すべて悲劇であって、その深刻で陰惨な場面の息抜きとして、ほんの一部分、滑稽なところがあるだけなのに、此の節は哀しむべきところでも笑い声が漏れるのは悪気でも何でもなく、テレビを見続けて染み着いた無意識なる条件反射なのかもしれません。
桜丸も、勘平も、いがみの権太も、ゆくりなくめぐり合った運命的な事件に自ら身を投じて死を選び、大いなるものの犠牲となって魂の救済を得るのですが、その悲劇のはじまりから終わりまでを見守る観客も、舞台上の主人公と共に、浄土の寂光に照らされるのです。
こうした昔ながらの信仰に根ざした大衆の心も知らず、かつてのインテリたちは封建時代の愚劇と嗤(わら)ったものですが、むかしの婦人たちは芝居を見物することを「泣きに行く」と言ったそうで、つまりは悲劇に共鳴して涙を流すことで、日常生活の鬱屈を浄化していたのかもしれませんね。
山本: たしかに歌舞伎が流行したのは文化を鑑賞するという意味合いに変わってしまったんでしょうね。岩下さんのお話をお聞きして芝居を見るということの本質に触れたような 気がします。いまは、人は病院で亡くなるのが当たり前ですから、たとえば戦争で死んだ 家族の話なども歴史で勉強しているから悲惨さを知るだけで、実際には共感できないこと なのかもしれません。人の生き死にをリアルな感情で共感することが芝居であって伝統と 言いだした途端に絶えていく。こうしたものの考え方は勉強になります。
岩下氏: 私は昭和の暮れ方に新橋演舞場へ入社して、劇場創設の母胎である新橋花街の名妓たち、それこそ国宝のような明治生まれのおばあさんたちに揉まれながら、長唄、常磐津、清元、囃子それぞれ本物の人間国宝の師匠方ならびに花柳、尾上、西川の舞踊の家元方と御一緒に『東をどり』の制作に携わりましたが、当時の私は二十代の若造でしたからね、緊張感はありながら、豪奢で学びの多い人生の修業をさせてもらいました。
いまから当時を振り返りますと、明治生まれの新橋の名妓ならびに銀座の商店の旦那衆は根っからのリアリストで、なにごとも「一道萬藝に通ず」(一つの芸道を極めた人は、その根底にある真理や道理を体得しているため、他の分野でも優れた能力を発揮できるという意味)と云う態度でしたから、観念的な無駄がなく、ずいぶん勉強になりました。
それから、映画の『国宝』にちなむわけではありませんが、その世代の名妓はもちろん、梨園の名優、新派や新劇の名女優、さらに日本舞踊や三味線音楽の名人の多くは、少年少女のころに外の世界から入って来られ、鍛錬修業のすえに大成されたことを見聞きするにつけ、容貌や体質は遺伝するかもしれませんが、芸すなわち才能のDNAはアテにならないことを眼のあたり接してきました。名人の子が名人になるとは限りませんし、また、名人の子が名人になった場合も、風貌は似ていても芸質が異なることがありました。
なんの因果のめぐり合わせか、十代から三十代はじめにかけての私は祖父母の世代にあたる名人たちの謦咳(けいがい)に接し、貴重すべき示唆を与えられましたが、昭和天皇崩御に際して、皆さん、揃って彼岸へ旅立たれた平成改元当時の喪失感は、四十年近く経ったいまもなお、私のなかで続いています。
敗戦をはじめ、甚大な天変地異など、幾つもの国難を乗り越え、たのもしくも、しなやかに生き続け、我邦(注:我が国)を経済大国に押し上げて下さった明治生まれの方々の胆力を思うとき、平成以降の衰退は面目ないばかりですが、いまの若者のあいだに大人しやかなリアリストが増えていることは幸いで、薄ら明りがさしてきたようにも見えます。
山本: いまを生きることは辛いことも受け入れて生きていく。昔の方の生きざまを知ると、私たちの世代は物に恵まれて、ともすればどうしたら楽しく笑って過ごせるか、もっと豊かになるにはどうすればいいかということばかりに目がいって、観念的な精神論に走ってしまったのかもしれません。
さて、岩下さんは還暦のときに大病を患っていますが、病気も人生の中でお辛い経験では なかったのですか。
岩下氏: それが、心底、ホッとしました。長いあいだ緊張を強いられた芝居も、ようやく、幕切れに近づいたと思いましてね。
5年ほど前のことです。咳が止まらないので、ハンカチで口を覆うと真っ赤に染まりました。痛くも苦しくもなかったのですが、当時はパンデミックで都内の病床が足りないと聞いていましたから、なんの病気か分からないけれども、入院できなかったら大変だと思い、自分で救急車を呼んで、夜着や洗面具をバッグに詰めて乗り込みました。コロナだと思われて、3時間ばかりも盥まわしにされたので、横になったまゝ、救急隊長に「健康診断で弁膜症だと言われたことがある」と告げますと、直ぐに東京女子医科大学に連絡してくれて、到着するや、私の足を触った若い医師から「鬱血性心不全。即、入院」と告げられ、2週間かけて検査した結果、「特発性拡張型心筋症」と云う難病指定の患者となり、「僧帽弁膜症」の外科手術を受けることになりました。
その前日、病室の窓から、西新宿の摩天楼の間に、大きな日輪が輝きながら沈むのが見えましてね、あゝ、ありがたいと思ったら、はらはらと泪がこぼれました。
それを見た看護師さんは、可哀想に、この人は生まれて初めて手術を受けるのが不安で、まして難病指定でもあるし、悲観していると思ったらしいのですが、そうではありません。すでに父は天寿を全うし、その後に認知症が進行して有料老人ホームに入居させた母への仕送りは、もし私が身罷(みまか)ったあとも終生、絶える心配はありませんでした。飼っていた犬も相応の養育費を付ければ、可愛がって下さる方へお譲りできます。そうした手続きを遂行してくれる人についても、入院早々、電話で口説いて了解を得ていました。
そのときの私は、手術で助かるかどうかは分かりませんでしたが、もともと「生」に執着を持たず、妻も子も兄弟も恋人も持たない私にとっての気がかりは解決し、もしも助からないとしても、卒後の準備万端を整えるための猶予の時間に惠まれたことが有り難くて泪がこぼれたのか、あるいは娑婆苦の続く現世から逃れられると云う安堵の泪であったかは、それから5年を経ったいまでは、はっきりと思い出すことはできませんけれども、手術の前日に病室の窓から見えた「弥陀(みだ)の来迎(らいごう)」(注:阿弥陀如来が極楽へ連れて行く様)さながらの燦爛たる夕陽は、いまもありありと思い出すことができます。
しかし、東京女子医科大学の大先生たちのおかげで手術は成功し、難病指定ではあるものゝ、痛みも苦しみもなく、安寧な日々を送ることができるようになりましたから、後事を託すべき候補者の中から、三十代の夫婦者を選びまして、公正証書にした遺言書を取り交わし、葬儀および法事の式次第も細かく指示しております。
葬儀委員長はね、安住紳一郎アナウンサーにお願いして居ります。そうすれば、彼の御顔の広さで、私を知らないスターや著名人がたくさん来て下さるかもしれないでしょう。存生中は地味な一生だったから、葬儀は荘厳華麗で行こうと思いましてね。
山本: 私も岩下さんのおっしゃる通り、葬式はしめやかに執り行うよりも楽しいものであ ってほしいと考えています。もちろん不慮の事故や若くして亡くなってしまった方の葬式 は悲しいものですが、年を取っての葬式はにぎやかでいいと。というのは、子どもがいる のであれば葬式は次の世代への襲名披露のようなものですから。人は忘れ去られてしまう と悲しいものですが、葬式は故人を思い出してもらう最高の機会です。
人生で式といえば結婚式と葬式の2回くらいですから、岩下さんが葬式を楽しいものにしようというのは、私は賛成ですよ。いまは葬式をしなくてもいいという風潮もありますから、それは非常にもったいないことだと感じています。
岩下氏: あゝ、「死んだら終わりで何もないから、骨なんか捨ててくれ」なんて言う老人、居ますね。「死ぬときは誰の世話にもならない」なんて、できもしないことを威張って言いたがる老人も少なくはありません。身内や友人が知らん顏をすれば、行政の誰かに屍体を片づけてもらわなければならない現実を知らないのか、分かっていても頭を下げたくないのか、困った老人たちが増えましたね。現実を見たくないのでしょう。
マスメディアから長年にわたって日常的に影響を受けた世代は、聞き齧(かじ)りの聴きおぼえを、半ば無意識の鸚鵡(おうむ)がえしで口にする癖が付いていますから、本人の心の奥にあるものとは違うことを口走ることも多いようです。しかし、それを周囲が真に受けると、本当にそうなってしまうと葬式もお墓も絶えてしまうということもあります。言った本人はいいかもしれませんが、子どもや孫、曾孫の時代になって世の風潮が変わり、先祖を供養したいときに困るのではないでしょうか。
私などは、自分の魂が生身を離れてからのことが気になって仕方がないので、先ほども申しました葬儀の式次第をはじめ、年回の法事には私を偲んで下さる方々をお招きし、新橋や祇園町の馴染みの名妓に『残月』を踊らせ、御斎としては吉兆か福田家の御膳をお出しするよう、相続人に申し付けているくらいです。
ということで、私の詰まらない話はおしまい。
実は葬儀や墓地に関する現状を山本社長に伺いたくて、今回のインタビューを引き受けたんですよ。これからは、私が聞き役に廻ります。
そもそも山本社長はこの業界に、どのような御縁で入られたのですか。
山本: 私は学生時代に大阪の枚方市のお寺でアルバイトをしていて、そこはものすごい貧 乏寺だったのですが、大阪市がお寺の敷地の一部を公園にするということで5億円が入ってきたんですよ。そうしたら住職がそこから散財するようになったんです。あるとき、檀家さんから寄付金2000万円を募って鐘撞堂をつくるということになったのですが、いっこうにつくる気配がない。そこで檀家総代の方から相談されて使者として住職に話したら、なんと遊んで寄付金を全部使ってしまったと言うんですよ。
もう横領です。住職はお金を工面できないということで、私はお寺の空いた敷地にお墓でもつくって、売れたお金で鐘撞堂をつくったらどうかということを提案したら、近隣にお墓をつくる許可取りをすることにまでなって……。 ただ、偶然にも近隣14軒の方々が1日でハンコを押してくれました。大阪府に許可の申請をして、あとは石屋さんとやってほしいと住職に言うと、なんと石屋も探してほしいと。そこから29歳で、この業界に入ったんですよ。
住職はその後も変わらずに、お墓が売れてお金が工面できても鐘撞堂をつくることなく、 もう1回寄付でも集めようかという始末で、私は彼からは離れることにしたんです。それ までは先代が貧乏寺として清貧の生活をしていましたから、急に大金が舞い込んでお金の 使い方を知らずに遊んでしまったんでしょうね。結局彼は、58 歳でパーキンソン病になって、65歳で亡くなりました。
岩下氏: どうせ破壊僧になるなら、金で堕ちるより、桜姫の容色に迷った清玄のほうが色気がありますな。
山本: お墓は一度売ってしまえばお金が入るわけですが、そのお墓が売れないということ で広大な土地に数十墓しか建っていない霊園もあります。なんとかしてほしいと私のところに相談に来るケースが増えています。また、永代供養を取っても納骨堂などでは、安置するための管理費を取ったり、樹木葬では樹木が枯れて植え替えるのに追加費用を取ったりなどトラブルになるケースも生じています。
うちの場合は、樹齢千年のオリーブの木を中心にその周りにお墓をめぐらせて納骨していますし、お骨も土に還るよう布袋に入れて納骨しています。中心に据える木は海外から運んでくるのにかなりコストはかかりますが、霊園の景観を大事にし、世界観がつくれるというのがいいですね。
ちなみに、トラブルになる納骨堂に関しても業界の話がたくさんあります。まず普通の納 骨堂は、一番下の場所は売れません。土下座で拝んでも骨壺は見えませんし、それこそヘッドスライディングの姿勢で見るしかありませんから、一番下の場所は空いてしまうんです。一番上の場所も似たり寄ったりで、結局真ん中しか売れないということです。そこで、エレベーターのようにボタンを押せば目の前に骨壺が現れるといったような機械式の納骨堂を建てるところが出てきます。狭い土地でも活用できて、上下が売れないといった原因も解消されますが、これまた問題が起こります。
以前、機械式の納骨堂の中を拝見したことがあるのですが、立体駐車場のように長い板の上に骨壺が置かれていてボタンを押すと出てくる感じです。これはイメージできると思 います。しかし、びっくりしたのがこの板の上に骨壺が3つ並べられているのです。つまり、板の上には前に山田家、真ん中に田中家、後ろに山本家と骨壺が並べられていて、たとえば山本家のボタンを押すと、山本家の骨壺が取り出されて前に運ばれて出てくるんです。
しかし、骨壺って意外に重くて板に加重がかかって板がずれてくるんですね。そうすると故障して誤作動を起こす。つまり、山本家のボタンを押しても骨壺が現れないなんていうことがあったりするんです。しかも機械式の納骨堂は、そもそも地価に見合わないんです。機械を入れるのに土地を合わすと7億円、いやもっと掛かります。
そしてもう1つの問題は、機械は故障するということです。だいたい補償が10年くらいですが、永代供養と云いながら機械の寿命は10年程ですから、その先のメンテナンス費用を考えていないんですよ。しかも、納骨堂の外観もいくらモダンなつくりにしたとしてもトレンドが変わってしまいますから廃れてしまうことも考慮に入れなければならないんです。
納骨堂の故障というと、私はまさにその現場にいたことがあるんですよ。もう25年くらい前の話ですが、土地の狭い台湾で日本の企業が納骨堂をつくって、そのオープンセレモニーに呼ばれたことがありました。親会社の大企業の役員さんが、骨壺が上がってきたのを合図にテープカットするという段取りだったようですが、いっこうに上がってこない。原因は3日前からの大雨で納骨堂内の床が水浸しになって電気系統がダメになったらしいのです。
結局、骨壺が上がってこないままテープカットされたのですが、役員が「これは潰れるな」という言葉が耳に入ってきて、それがいまでも忘れられないですね。やはり自然がいいですよ。地震が起こっても同じような事態になりかねませんし。
岩下氏: やはり、ながく事業に携わって来られた社長のお話には、私ども深い興味と牽引を感じます。あまり知られていない業界の表も裏も奥も知る当事者ならではの経験と視点は面白い。
いまのような、余人の窺うことを許されぬ実話を山ほどお持ちでしょうから、御自身でユーチューブをなさったらいかがですか? タイトルは短いほうが宜しいから、「山本社長の『墓チャン』」とか。
山本: ありがとうございます。よくスタッフからも言われるんですが……。本日は私の話 ばかり恐縮です。最後に岩下さんに伺いたいのですが、これからの活動について、どのようにお考えでいらっしゃいますか。
岩下氏: 両親を見送って天涯孤独のはずの私も、還暦を迎えたばかりで大病して快気を得たおかげさまで、若いのに良くできた相続人にも恵まれましたから、老いぼれて迷惑を掛ける前に、できたら早く土に還りたいと思っているくらいですよ。柳田國男が『先祖の話』で、33回忌の弔い上げを迎えたら霊魂が浄化され、めでたく神になることができると説いていますから、相続人の家族を実の子孫だと思って、常世の国から彼らの幸せを見守りたいと思います。
山本: 死んで神になる、いい言葉ですね。博覧強記でいらっしゃる岩下さんのお話をもっとお聞きしたいところですが、今回は私の話をうまく引き出されてしまいました。伝統は 守られていくものではなく、いまを生きるほうがいかに大切であるか。私の業界も日本人 の精神を土台にしながら進化していかなければと感じました。
本日はありがとうございました。







