VOL.61
三好玲子氏×山本一郎
幾多の死を見つめてきたからこそ知る。強くしなやかに生きる女優の姿
対談相手のご紹介
ミヨシコーポレーション グループ 代表取締役会長 三好玲子氏
三好玲子
Reiko Miyoshi
ミヨシコーポレーショングループは、1951年創業以来、外食産業をリードし、お客様に喜びと楽しさをご提供する、時代を先取りした多業態の店舗展開を行ってまいりました。伝統を継承しながら、時代に合わせて、お客様のニーズを取り入れたメニュー開発と顧客サービスの強化に取り組んでおります。
対談の様子
山本:ミヨシコーポレーションは「サバティーニ・ディ・フィレンツェ」や「中国料理 青冥 (Ching Ming)」など、和洋中のさまざまなレストランを24店舗経営されています。現在、三好玲子さんは会長として会社の指揮をとっていらっしゃいますが、その前身は創業者であるお父様の三郎氏が伝説のクラブ 「ラ・モール」を開業したことに始まります。当時、三郎氏は業界の革命児として名を馳せた方ですね。どんなお父様だったのでしょうか。
三好:私の父は中井家の三男として生まれ、三好家の養子として育ちました。山口県の徳山中学校から海軍の予科練を経て航空隊に入隊したのですが、運よく戦死をまぬがれて、戦後は松竹の営業マンとしてサラリーマンからスタートしています。
当時の花形部署といえば邦画配給部門でした。父はそこから洋画部に転属されてしまったのですが、チャップリンの『ライムライト』やイタリア映画『自転車泥棒』などの配給を手がけてトップセールスマンとして活躍したそうです。
でも、松竹や東宝といった映画会社は一族経営でしたから、いくら出世しても社長にはなれない。そこで、サラリーマンをしながら徳山でレストラン「ラ・モール」を開業したのがミヨシコーポレーションの原点です。父が25歳のときでした。
「ラ・モール」という名はフランス語で「死んだネズミ」という意味ですが、19世紀末、パリのモンマルトルにあった伝説的なカフェとして有名で、当時の詩人や画家が集った場所です。
父は徳山で成功したのを皮切りに、「ラ・モール」は大阪、そして東京へと進出して銀座のクラブ「ラ・モール」として名を残すことになりました。
山本:銀座「ラ・モール」といえば、政財界や作家など著名人の社交場として伝説的なクラブとしてその名を残しています。銀座の夜の歴史を変えたとも言われましたが、そんな「ラ・モール」の成功は三郎氏のさまざまなアイデアがあったとお聞きします。
三好:そうですね。まずこれまでのクラブ経営というのは、有名なママがクラブ経営をするという形態でした。銀座では「エスポワール」の川辺るみ子ママ、「おそめ」の上羽秀ママ、直木賞作家の山口洋子さんの「姫」などが有名ですが、当時はママの魅力が売りという時代。そんななかで、父は男性ですからママとクラブ経営を完全に切り離して考えたことが大きく異なる点です。
父は大阪で店を任せていた花田美奈子さんを銀座のママに据えました。ただ、ここからが父のすごいアイデアです。開店前に彼女をパリに行かせ、そこからエアメールで「ラ・モール」開店の案内状を送ったのです。
普通の案内状だと、クラブからの手紙ということで会社なら秘書が事前に処分して社長のところまで届かないかもしれない。自宅に送れば奥様がそれを見て捨ててしまうかもしれない。でも、エアメールなら何か重要な手紙かもしれないと思って、本人の手元に届くはずだというアイデアです。そのアイデアが功を奏して、「ラ・モール」は開店当初から大繁盛でした。
また、父はPR戦略を常に考えていて、たとえば作家の先生が来られたら、先生の周りに集まる出版社の編集長たちとの縁を深める。すると、彼らは雑誌の特集などで「ラ・モール」を取り上げてくれる。そんな形で助けられながらも有名店になっていきました。
山本:やはり、三郎氏のさまざまなアイデアと人との縁を生かしていったことが成功へと導いていったのでしょうね。「ラ・モール」は“銀座一高い店”として雑誌にも謳われましたが、逆にそれが伝説を生んでいったのだと思います。
三郎氏といえばもう1つ、皇居外周のマラソン文化をつくった方だと知りました。
三好:それは1964年の東京オリンピックが開催された年のことです。銀座のホステスさんを集めて、皇居を1周する「ホステスマラソン」を開催したのが父でした。当時私は大阪に住んでいて、父からはこの話をうかがっていましたが、NHKの「チコちゃんに叱られる!」という番組で「ホステスマラソン」が取り上げられて、三郎の娘ということで出演したことがあるんです。驚いたのは、私がうる覚えな記憶も彼らスタッフのほうが念入りに調べてくれて、私よりも詳しかったんですよ。
父はオリンピックで銅メダルを獲った円谷幸吉選手にあやかってイベントを開催したそうですが、店が明けてから夜中にホステスさんが走りますから、健康管理の面などいろいろと大変だったそうです。ベンツを先導車にしたりドクターカーを用意したりと、新聞社もたくさん集まっての一大イベントだったようです。
そうした父のアイデアが、のちに皇居ランという文化を生み出したことは、歴史として名を残した父の功績と言っていいかもしれませんね。
山本:お父様のお話をうかがっていて、本当に時代をつくった方だとつくづく感じます。このときの三郎氏はそうとう忙しくしていたと思いますが、玲子会長自身はそうした父親の姿を見て育ったのですか。
三好:私は高校2年まで大阪で育ち、高校3年のときに東京の学校に移りました。当時は父は月に一度、大阪に帰ってくるという生活でした。ですから、父が帰って来ると家族で食事をするのですが、いつも緊張していたと思います。父は偉大な存在でしたから「おかえりなさい」というよりも「こんにちは」といった感じです。だから、ホームドラマのような“パパの姿”というのはなかったですね。
私は長女で弟や妹がいますが、とにかく母が観音様のようなやさしい母親でしたから、私たちは思春期でも不良にならずにすんだのではないかと思うくらいです。父親が普通に家に帰ってくる家庭だったら、もしかした違った形になっていたかもしれません。
でも、東京で生活を始めてから、父は私をいろいろなレストランに連れて行ってくれました。たとえば、川添梶子さんの飯倉の「キャンティ」にはよく連れて行ってもらいました。いま考えると、こうしたレストランに行ったのは、父なりの帝王学だったのかもしれません。
父がさまざまな飲食業を手がけるようになったのも、子どもたちが生まれてクラブ経営だけではダメだということで、初めて手がけたのが「ローゼンケラー」というビアレストランです。「ラ・モール」開店2年後の1962年、父が36歳のときです。
「ローゼンケラー」はドイツのビアレストランを本場として提供するということで、料理をつくるシェフも、ビールを運ぶウエイターやウエイトレスもすべてドイツ人。バンドも外国人を呼び寄せて、まさに本場のドイツを再現したものです。
しかし、開店1年間近く、ほとんどお客様が来ないという状況でした。当時、スタッフが全員外国人というのはお客様が引いてしまうような時代です。そこでも力になったのは人の縁です。父が親しくさせていただいていた「週刊文春」の編集長が「金髪給仕の胸のうち」という特集を8ページも出していただいたのです。
そこからお医者様が婦長さんやインターンの方などと一緒に来られるようになりました。当時はお医者様といえばドイツ語でしたから、ドイツ人スタッフたちと会話も楽しむことができる。そうしたお客様が来られるようになって「ローゼンケラー」が知られるようになりました。これもマスコミの方との縁に助けられた結果です。
そこからは多角的にヨーロッパ各国や和食・中華などのレストラン事業を拡大していきました。
山本:ここから食のミヨシコーポレーションとしてのいまが誕生する、いわば第2期というわけですね。そして、何といってもレストランとして名を馳せたのが「マキシム・ド・パリ・イン・トウキョウ」です。銀座ソニービルに開店したこのレストラン誕生には、盛田昭夫さんとの秘話があるそうですが。
三好:父が盛田さんと出会ったのが1963年11月23日、ケネディ大統領が暗殺された翌日でアメリカが騒然となっていた日です。父がニューヨークのホテルから出ようとしたら盛田さんとばったり出会ったそうです。
「ラ・モール」にお越しになった際に挨拶をかわす程度だったようですが、その頃ちょうど盛田さんもトランジスタラジオを海外に売り込もうとしていた時期でした。盛田さんと父は意気投合してレストランの展開を話したところ、盛田さんから銀座ソニービルの構想を聞かされたそうです。
そこで、これから世界に打って出るソニーにふさわしいレストランをつくりたいと、世界の高級レストランを知る父に、ビルいっさいのレストラン事業を任せたいというお申し出をいただいたのです。
父は「ミシュラン三ツ星の世界最高峰フレンチレストラン『マキシム・ド・パリ』を持ってきます」と提案したところ、盛田さんは即決で快諾してくれて、「マキシム・ド・パリ・イン・トウキョウ」が誕生することになりました。父が41歳のときでした。
レストランは「マキシム・ド・パリ」の雰囲気をお客様に体感していただくために、豪華なシャンデリアに鏡の壁面、マホガニー製の家具、分厚い絨毯と、まさにパリ本店そのままに再現しました。また開店には本店からシェフ、給仕長、ソムリエ、キャプテン・ウエイター、ミュージシャンと15名のスタッフを呼び寄せて、本物のフレンチを提供するレストランとなりました。
「マキシム・ド・パリ・イン・トウキョウ」の出店は、ソニーの世界進出に花を添えたのではないでしょうか。これも父の人との縁の深さを感じた出来事です。
山本:銀座ソニービルには「マキシム・ド・パリ・イン・トウキョウ」をはじめ、アメリカのカフェ「パブ・カーディナル」やイタリアンの「ベルベデーレ」と3つの欧米文化を1つのビルに凝縮した、まさに世界のソニーの象徴です。
こうして、世界の食を提供する会社へと成長し、フランス、イタリア、アメリカ、ドイツ、スペイン、和食、中華と三郎氏が手がけた店舗は200以上にのぼっています。なかでも、和食を世界に広めようとフランスに「YAKITORI」というレストランを経営されたことは慧眼に値します。会長はこの「YAKITORI」の経営でフランスに滞在されていたそうですね。
三好:この「YAKITORI」というお店は、私がフランスに赴くとき、すでに老舗として知られていました。そこで私は8年間、7店舗と工場を経営しました。父が経営を始めた頃は、フランスで和食レストランは10本の指で数える程度しかありませんでした。父は日本人ツーリスト向けではなく、フランス人にも和食を知ってほしいという想いから、本格的な和食として寿司と焼き鳥を提供していました。
でも、和食がブームになりだしてからフランスにも和食レストランが乱立し、いわゆる“もどき”がどんどん増えていきました。日本人ではなく外国人でも半年くらい修行すれば引き抜かれて、真似されてお店ができる。私がフランスにいたときには130店舗くらいそういった和食レストランがありましたから。
弊社は日本からも職人さんを呼んで本格的な和食を提供していたのですが、どうしても採算がとれなくなった。私もそうとう闘いましたが、最後の2年はクロージングに費やすことになりました。
とはいえ、この2年はかなりしんどかったですね。フランスでは労働者は守られていますから、次の就職先を探さなければならないし、ほかの仕事の希望があれば勉強するための保証もしないとならない。スタッフは140名いましたが、全員の行き先を見つけて送り出しました。ただ、やめるときは最後、全員から「ありがとう」という感謝の言葉をいただいたので、それが何より社長としてありがたかったですね。
こうして「YAKITORI」は、37年間営業を続け、2年かけて精算して幕を閉じました。これもひとつの歴史でした。
私としてはフランスに永住してもいいと思って渡仏したのですが、幸いなことに日本の会社に戻って来いと言われ、取締役として再スタートすることになりました。
山本:海外でのクロージングは、その国の労働環境が日本とはまったく違いますから一筋縄ではいかないご苦労があったと思います。そんな苦労があったからこそ、日本での経営に生かされたのでしょうね。御社のホームページに「一期一笑の想いで、食と人を繋ぐ」とありますが、その理念は、三好さん、そして、現在の社長へと引き継がれているのですね。
三好:そうですね。ただ、そうしたなかで私が忘れられない失敗談があるんです。「サバティーニ・ディ・フィレンツェ」が銀座ソニービルにあった頃の話ですが、お手洗いがレストランの中にも外のフロアにもありました。そのときはレストラン内のお手洗いが工事中で使えず、お客様は同じフロアのビルのトイレをお使いになったんです。
そうしたら、洗面台の蛇口から水がワッと噴き出して、洋服にぜんぶ水がかかってしまったことがありました。すぐに支配人から連絡あって事情を訊くと、ものすごく怒っていらっしゃったと。私は支配人、総務の担当者と3人ですぐに謝罪に向かいました。レストランのお手洗いが使えず、外のお手洗いで起こった出来事だということで、工事中でうちのお手洗いが使えなかったことに申し訳ない気持ちでいたからです。
謝罪に行った先は、佃にあるタワーマンションでした。50代くらいの女性が玄関先に出て来られて、私は真っ先に謝罪の言葉を述べました。「まことに申し訳ございません。私どものサバティーニでこういう始末で……とにかくお洋服を弁償させていただきますし、クリーニングさせていただきます」と。すると、お客様が「あなた、だ~れ?」と京都弁を使われたのです。
私はとっさに「私、社長をしており三好でございます。いやほんまにもうこんなことになりまして。なんと言ってお詫びしてええか、ほんまに申し訳ございませんでした」と言っておりました。
私は大阪で育ちましたから、とっさに大阪弁で言ったことが心からの謝罪だと通じたのかもしれません。そうしたら、お客様に「ちょっと、あがんなさい」と言われて3人でお邪魔することになりました。そこでいろいろと話をしているうちに、お客様は私をとても気に入ってくれたようで、それからは毎週のようにご夫婦でお店に来られるようになったんです。結果的に、私にとって大切なお客様になりました。
こうしたお客様とのエピソードはたくさんありますが、私どものレストランは人と食を繋ぐ空間として、長きにわたりお客様にお使いいただいております。お客様には何代も続いている方も多く、「うちの祖父も来ていたのですか」といったお孫さんまでいらっしゃいます。そうした話をうかがうと、やはり歴史を感じますよね。
いつも父が言っていたのは「BGMはいらない。ほんまに一番のBGMはお客様の会話とナイフとフォークの音やねん」という言葉です。うちのレストランは間違いなく、お客様にその店を色づけていただいたということを感じています。一期一笑の楽しい時間が私どもの店をつくり上げてくれることに感謝しかないですね。
山本:会長のお客様とのエピソードも三郎氏の言葉も、お客様を想うとてもいいお話です。三郎氏は人と縁を通じて多くのレストラン事業を展開されていきましたが、それが代々通って来られるお客様との縁を紡いでいるように感じました。そんな素敵な空間ですが、会長としてミヨシコーポレーションの未来をどのように描いていらっしゃいますか。
三好:父が私たち兄弟3人によく言っていたのは「3本の矢でやっていってほしい」ということでした。自分の時代は1人でやっていけたけど、もう時代は違うし、3人それぞれの性格があるからそれを生かしてほしいということでした。私は小さい頃から「おまえが男に生まれれば」と言われていましたから、性格的にも社長職、会長職としてやることができたのだと思います。
現在の社長は弟がしておりますが、会長としての私は「継続は力なり」を念頭に考えた会社の姿を思い描いています。これは私の考えですが、これから会社を大きくするというよりも、継続してスタッフを守っていければいいと思っているんです。
現在はいろいろな状況があります。天変地異もあれば世界的状況も変化します。近年ではコロナという大打撃もありました。そんなときに会社を小さくしなければならないといった状況もあるわけです。
もちろん会社が大きくなっていくのは一番いいことですが、置かれた状況によっては、そこでもう1回あらためて見直すことも必要だし、これじゃなければダメだという考え方ではいけないと思っています。
スタッフを守るとは、従業員満足度が高くないとお客様にうちの価値を伝えられないからです。お客様を喜ばせようと言ったところで、自分たちが喜んでいなかったら、それは嘘になりますから。
そして、会長職として私は、第一線から一歩下がった視点で見るようにしています。すでに営業サイドは役員から部長までみんなすごく若いので、報告は聞きますが、よほどでないかぎり、私は意見をあまり言うことはしません。
それよりも継続していけるかというビジョンを持って、社長を後ろで支えることが私の仕事です。社長も孤独ですから、彼と会話しながらガス抜きさせたり、それは役員にも然りです。そうした考えはアルバイトのスタッフでも同じです。パッと店に行って、「あっそうなんや」と話を聞いたり、「なんか口紅、変えた?」「髪形、いいやない」と言いながら、髪形やシャツの汚れなんかも指摘する。そうした役割は、私のセクションでもあると思っています。
あとは、今年になってつくったのですが、私とデザイン部の女性の2人で、店全体を見直すということを始めました。各店では店長たちが自分たちで、ここにシートをつくって……など、いろいろと考えています。そこを私たちが会話をしながら聞き出して最適なものを提案するというようなことをやっています。これは私たち2人が感じているお客様目線を第一に考えているからです。
会社を継続していくというのは、長い間お客様が通い続けていらっしゃるなかで、守らなければならないものと新しくちょっとずつ変えていかなければならないものがあります。それを考えていくことも大事なことだと思っています。
山本:会長としてお役目、そして、ご兄弟がそれぞれの形で会社を支えていかれていると思いますが、いまは会長の息子さんたちもお仕事を支えていらっしゃるそうですね。
三好:私には3人の息子がおりまして、長男が50で次男が43、一番下が27歳です。上の2人はうちの会社に入っておりますが、三男は私が42歳のときに産んだ子ですから、割と好きなようにやらせています。
そんな息子たちに、母親として伝えていることが2つあります。それは「人を裏切るな」ということと「保証人にはなるな」というものです。人から裏切られてもいいから自分から人を裏切るなと。その人とのつながりを裏切ることは大切な縁や運をみずから断ち切ってしまうことで、相手から裏切られることがあったとしても、自分から縁や運を手放してはいけないという意味で、よく息子たちには言っています。
そして「保証人にはなるな」というのは、実は父の教えです。父はよく「お金を貸すんだったらあげたと思え」と言っていました。父はお金ほど恐いものはないということを誰よりも感じてきたのだと思います。おそらくお金によって人間関係が崩れていく様をたくさん見てきたでしょうし、お金を貸してほしい、保証人になってほしいという頼みごとも日常茶飯事だったでしょうから。もうこれは三好家の家訓に近いと思っています。
幸いなことに、息子たちはこの2つは守ってくれています。ただ、私は子どもたちを育てたというよりも、子どもたちが私を成長させてくれたという思いのほうが強いですね。息子たちを見てきて、そこにはいろいろな問題があって、万事スムーズにいったわけではない。そんなときに子どもたちと一緒に考えて悩んで喜んだりして、それで私も成長させてもらったなという思いがありますから。
いまは上の息子2人が会社に入ってがんばってくれています。やはり男兄弟ですからベッタリ仲がいいという感じではありませんが、互いにリスペクトし合っているというか、共通の仕事という部分でしっかり繋がっていますね。
山本:それは力強いですね。三郎氏が創業者として成した飲食事業を会長として継続する力に変え、それをまた息子さんたちが支えてくれる。そして、代を重ねてお客様がお店を訪れる。これは会社としての歴史であり、これからもその歴史をつくり上げていくことなのかもしれませんね。お話をうかがっていて、こうした歴史の中にお客様がいたということが、その人にとって何よりの思い出なのかもしれません。
三好:実はそんなことを感じさせてくれる出来事があるんです。私の大先輩でもあるのですが、その方が去年亡くなられて、「サバティーニ・ディ・フィレンツェ」を借り切ってパーティをしてほしいということが遺言にあったそうなんです。
そこで、彼女のお嬢様から来月、サバティーニにお客様70名を招待して楽しくパーティをしようということになったんですよ。あくまでも故人の希望で偲ぶ会のようにせず、縁のあった方々が集まって楽しくパーティを開くということで、そんな話の流れからお嬢様と“亡くなられた方たちのパーティ”というものを企画してみようということになったんです。
日本人は、故人を偲ぶために法事を開きますが、キリスト教でも中国などでも亡くなるということは、また新しいスタートだと言われています。また生まれ変わると同時に、それが1つの区切りとなって、また次のステージにいかれる。そこに縁のある方々が集まってその門出を祝う。そう考えると、死はけっして悲しいことだけではないと思うんです。
私の大先輩だった彼女の遺言にもそういった意味が込められていて、彼女の好きだった料理をつくって、そこに彼女の好きな赤ワインを揃えて、彼女の新しいスタートを祝うのが今度のイベントです。
お招きする70名のうちの40名の方たちは、ほぼ平均年齢が80歳で、そういう意味では、「あっ、生きていたね。元気で何よりね」といった会話も生まれるんじゃないかと思っています。
山本:それは故人にとっても最高の供養ですよね。私はそのイベントをどんどんやってほしいと思います。パーティにいらした方々が、次に自分の番がきたらここで頼むよと笑って言えるような会が一番いいのかもしれませんね。
実は日本人は、故人に対するそうした感情を持ち合わせていると思っています。私がやっている霊園も、小さい子どもからご老人まで楽しくお墓参りしていますし、偲ぶというよりも、ここに来れば故人といつでも会えるという感覚でお越しになられますから。
故人というお話で、お父様は5年前に亡くなられたそうですね。
三好:父はコロナ禍の時期に亡くなり、そのときは他県に行くこともできず、私は父の最期を看取ることができなかったんですよ。でも、コロナ前はずっと父と会っていろいろな話をしておりましたので、大きな後悔というものはありません。お葬式も盛大にすることができなかったので、コロナがなければ違った形で葬儀が行えたというのはありますけど。
私は自分の部屋にご先祖様の写真をすべて置いていて、いまは父の写真も一緒に置いております。そして、毎朝ご先祖様の写真に手を合わせてから仕事に向かっています。帰宅したときもまず先祖様と会話をします。すると、ご先祖様に私は守られていると肌で感じますし、父母がいて、祖父母がいて、曾祖父母がいて……と、いま自分がここにいるという感謝の気持ちが湧いてきます。そんな三好家のご先祖様のなかに父もいるという安心感というか、家族の歴史というものを感じます。
そういえば、父の歴史ということで、生前に自費出版で父の本を製作しました。『タキシードサムライ 三好三郎一代記』というタイトルなのですが、これは書き手であり、編者を務めてくださった写真家でジャーナリストの都築響一さんが手がけてくれた本です。
この本は父の最高の形見となりましたが、この本のなかにも書いてある、父がよく言っていた私の好きな言葉があります。
それは「天運・地運・人運」という言葉です。本で父みずから語ったくだりがあります。「自分やまわりの人間ががんばってきたのはもちろんだけど、それだけじゃない。これぞというときに、これぞという場所で、これぞという人に巡り合う。それがあったからこそ、ここまで来れた。『運』ですから、自分の力でこうなったんじゃない。こうなるべくして、こういう人生になった」
私は、父の3つの運のなかでも、人との縁を大切にしてきた「人運」に関しては、すさまじいものがあったと思います。
多くの方たちとの縁のなかで、まさにサムライとして世界を飛び回っていた父を思うと、父が築き上げたものの偉大さをあらためて感じます。
山本:会長より本をいただいて読ませていただきましたが、「ラ・モール」が人と人を繋いだように、人運を生み出していたのは三郎氏自身だったのかもしれないと感じます。そしていま、人との縁はレストランに来られるお客様がつくり上げる。まさに玲子会長がこれからの三好の物語を描いていかれる姿が目に浮かびます。
これからもおいしい料理と素敵な空間をお届けいただければと思います。
本日はありがとうございました。