VOL.59
小西博之氏×山本一郎
「余命ゼロ」のガン告知から20年。 生きていることの意味を教えてくれる珠玉のメッセージ。
対談相手のご紹介
タレント 小西博之氏
小西博之
Konishi Hiroyuki
“コニタン”の愛称で親しまれ、欽ちゃんファミリーの一員として人気を博す。2005年に腎臓癌の大手術を受け、
90日間にわたる壮絶な闘病生活を経て、現在は仕事を行えるまで回復。支えてくれた方への感謝と、前向きに
生きることの大切さを強く実感し、トークショーや講演などで励ましと希望を与えている。
子どものころからウルトラマンの隊長になるのが夢であったが、その願いが叶い、2007年「ウルトラギャラクシー
大怪獣バトル」でZAP隊長「ヒュウガ」役にて出演。
対談の様子
山本:小西さんといえば、欽ちゃんファミリーの1人、「欽ちゃんの週刊欽曜日」でコニタンとして爆発的な人気を博しました。1980年代にバラエティ番組で最高視聴率42%といういまでは考えられない数字を叩き出した伝説的な番組です。
その後、小西さんは医者から「余命ゼロ」と宣告されたガンを克服し、そのご経験からガンを患っている方々へ全国各地の講演会でエールを贈られています。
そんな小西さんに、本日は人生におけるさまざまなお話や生き方についてお聞きしていきます。
もともと小西さんは、芸能界に入ろうと思ったわけではなく、教師になりたかったそうですね。
小西氏:そうなんですよ。この世界に入る直前までずっと教師になるつもりでした。私は和歌山県田辺市というところで生まれ、やんちゃな子どもとして育ちました。中学生のときに兵庫県西宮に引っ越したのですが、当時は学校同士でケンカをするのが当たり前の時代でしたから、野球をやっていて体も大きかった私はケンカの常連でもありました。
そんなあるとき、大きなケンカがありまして警察が出動するほどの騒ぎになって、私もその中の1人として警察に連行されたことがありました、その際に警察署員の方から「おまえ、誕生日の1カ月前か。よかったなあ」って言われたんです。そのときに知ったのですが、少年法というのがあって少年院送りを免れたんですね(編集注:現在は14歳未満でも送院されることがある)。
そんな私が取り調べを受けていると、担任の先生が飛び込んできて「なんとか小西を許してやってください」と土下座までして謝ってくれたんです。結果的に、毎週土曜日に4カ月間のカウンセリングを行うことですんだのですが、そのカウンセリングに毎回、その担任の先生も一緒に来てくれました。そのときに「俺、あの人みたいな先生になりたい」と思って、ずっと教師になることを夢見ていました。
山本:素晴らしい先生ですね。1人の先生が人生を導いてくれる。やんちゃだった小西さんが変わるターニングポイントだったわけですね。では、その後はずっと教師になるために努力されたのですね。
小西氏:その担任の先生はバスケットボール部の顧問をされていました。先生が勧めてくれたのは「おまえは勉強で教師になるのか、体育で教師になるのか。おまえは俺と同じアホやから、大学まで野球部で頑張ってそれで教師なれ」と。
だから、中学時代は野球部のキャプテンを務めたり、生徒会の体育委員長になって、とにかく盛り上げ役に徹しました。中学3年生の2学期に父親の都合で生まれ故郷の和歌山に帰ることになったのですが、年明けの引っ越しのときには、その担任の先生がJR甲子園口駅に100人以上の仲間を呼んでくれたんです。その光景を目に焼き付けながら、私は絶対に教師になろうと決意を新たに高校時代も野球漬けで過ごしました。
もちろん大学も野球で中京大学へ進学したのですが、練習グラウンドが遠くて授業を受けたあとに行くと遅刻してしまう。そうすると、当時の体育会系では当たり前の鉄槌が待っているわけです。なので野球部の監督が、籍だけ置いて野球部の肩書を持って教師を目指せばいいと言ってくれたんです。野球部員は150人以上いたのですが4分の3くらいは練習に参加していないという変な学校でしたが、きっと生徒のことを思ってくれて野球部所属を認めてくれたのでしょうね。
ただ、野球部の練習にほとんど行かなくてよくなったので、何か別のことをしようと思ったときに演劇部が思いついたんです。というのも、私は教師になろうと思っていましたから、そこで大事なのはパフォーマンス力をつけなければと考えたのです。
高校時代の野球部の部長(編集部注:高校野球では監督のほか、チームをマネジメントする部長職が別にある)が数学の教師をやっていて、授業のほとんどを面白い話で終始して、最後の10分くらいだけ「ここだけは覚えろ」という先生で、これが強く印象に残っていたんです。
だから、自分もどういった授業をすれば生徒を楽しませることができるかということを考えたときに、演劇部という発想が浮かんできたわけです。
山本:それは面白い。教師になるために演劇部に入ろうと考える人はほとんどいないのではないでしょうか。野球部のキャプテンや生徒会で学校を盛り上げてきた小西さんならではの発想ですね。そこは関西ノリも発揮されていますね。そうすると、演劇部ではやはり小西さんのノリが活かされたのでしょうか。
小西氏:本当にその通りで、演劇部に入ってよかったなと思っています。演劇部では地元のプロダクションを通じてエキストラ役のアルバイトが回ってくるんですが、歩いているだけで3000円くらいもらえました。でも、ただ歩くだけだったら面白くない。そこで、わざとコケてみたり、喫茶店のお客さん役のときは台本にないのにキスしようとするシーンを勝手にやるわけです。そうしたら、ディレクターに叱られるのですが顔は覚えてもらって……。
そんな目立ちたがり屋の性格を面白いと思ってくれたのか、プロダクションの社長から「テレビに出てみないか」と言われて、ちょいちょいオーディションを受けていました。
ただ、私は教師になるために演劇部に入ったわけですから、大学3、4年のときは教員採用試験を受けるために一生懸命勉強していました。
大学4年になり、教育実習していざ教員になろうと思っていた矢先、どんでもない事実を突きつけられました。それは丙午(ひのえうま)生まれの子どもが多い時期で、生徒数がものすごく少なかったんです。
つまりこの年は、教員採用枠がほとんどなく、採用枠ができる1年を棒に振ることになってしまったんです。でも、仕事をしないわけにはいきません。そこで、来年の4月まで待つのに会社に入るのは面白くない。そんなふうに考えていたときに当時そこだけ「24時間営業。(まかない)食べ放題」という貼り紙を見ました。
そうです。吉野家です。そこで大学4年の9月から働き出して、卒業後の4月に正社員になって、その翌年の4月に教員になろうと考えていました。
山本:私がなんと丙午なんです。たしかにあの時代はほかの学年は10クラスあったなかで、私の学年は半分の5クラスほどでしたから。ただ、丙午は迷信にすぎません。2年後の2026年に丙午を迎えますが、いまはあまり関係ないでしょうね。
この間、小西さんと芸能界という関係はほど遠くなったように思いますが、このまま吉野家から教員へという流れではなかったわけですよね。
小西氏:6月の教育実習でその年の教員採用がないということがわかって、例のプロダクションの社長に報告に行ったら、テレビのパイロット番組(編集注:テレビ番組がレギュラー化される前に制作される試作番組)に出ないかということで、その番組の1コマでバカバカしい刑事役で出演したんです。
そこで私が教師を目指していると知ったディレクターが、「まあ、教育実習も受けたことだし先生になるというていで」ということで、理科の教師役で番組に出演することになりました。白衣を着て、いっさい笑いを入れずに真面目にこんなふうに授業をしていました。
「今日はラッキョについて考えてみよう。まずはラッキョでゴルフをしてみましょう」と。もちろん転がりませんから「ラッキョでゴルフができないことがわかりましたね」と。「次はテニスです。(パーン、ブスッ)跳ね返りませんね。次は野球です。(パチーン)つぶれてしまいましたね」
そんなことを真面目にやって、「ラッキョは食べること以外にやることがないのがわかりました。ではまた来週」と、強面の私がやるもんですからバカバカしくて……。でも、これがヒットしたんです。
この台本を書いていた方が、萩本企画所属の放送作家の大岩賞介さんで、「欽ちゃんの週刊欽曜日」のオーディションに呼ばれることになったのです。
山本:ついに東京で、しかもお化け番組と言われた番組へとつながっていくわけですね。こうなると、教師ではなく芸能界へと心が傾いていったのですか。
小西氏:それが違うんです。私は真面目に教師になるつもりでした。そもそも私が東京に出かけたのは、欽ちゃんに会えると思って行きたかっただけで、それがオーディションであるということは知らなかったんです。
だから、夕方6時過ぎに「もう帰らないといけないので、帰っていいですか」と言うと、どうした、どうしたということで、わざわざ欽ちゃんが来てくれたんです。そこで私は「夜の11時から吉野家の仕事が入っているんで。店長やっているんで休めません」と言うと、欽ちゃんのツボに入ったようで、「面白いねぇ、吉野家の店長が来てるぞ」ということで、「休み取って、来週も来い」となったわけです。
実はこのとき、4月から養護学校の採用が決まっていて、3月まではきっちり吉野家の仕事を全うしたいと思っていましたから、本当に有名人を見たいと思っていただけです。
まさか全国デビューが決まったというのに、吉野家は辞めない、教師になるというのですから、欽ちゃんのスイッチがどんどん入っていって、私だけ3月まで吉野家で働いて、地元名古屋から通うということが許されて、教師も2、3年延ばせということでデビューということになったんです。
山本:デビュー当時は吉野家で仕事をしながら番組にも出られていたんですか。それは驚きです。小西さんの責任感の強さですね。でも、欽ちゃんの番組は全国区でしかもすごい視聴率です。吉野家の店長をやっていて大丈夫だったんですか。
小西氏:当時ありがたかったのは、吉野家の店長の写真は昼間の店長の写真だけ飾られていたんです。だから、じっと見てくるお客さんもいましたが、コニタンにそっくりな店長がいると思ったんでしょうね。でも、毎週日曜日にやって来る暴走族の子どもたちにネタバラシをしなければならない日を迎えたときのことはいまでも忘れられない思い出です。
彼らはいつも牛丼の並盛りを注文するものですから、「おまえら大盛りくらい食うやろ。おごったるから大盛り食え」なんてやっているうちに、仲良くなったんです。
そんな彼らがやって来た、私の店長最終日。明け方4時くらいにいつものように20人くらいで店に入って来ました。そこで私は彼らに事実を告げました。
「俺、おまえらに謝らねければあかん。あのテレビに出てんの、実は俺やねん。今日の昼に引っ越すねん……」
そう言うと、暴走族のトップが「なんで言うてくれなかったんや。表に出い!」と言うものですから、てっきりボコボコにされるんじゃないかと恐る恐る外に出ると、その彼が私をギュッと抱きしめてくれて、みんなで胴上げをしてくれたんです。
「東京もんに負けるんやないで! 中京魂じゃあ!」と。
あのときのことは一生忘れることができないですね。それから覚悟を決めて、とにかく一生懸命やると番組も突っ走りました。
山本:吉野家の店長をされていたことが欽ちゃんに面白いと思われて、地元のやんちゃな子どもたちに慕われて思いを新たにする。吉野家での仕事がすべてつながっていたんですね。その後の活躍は誰もが知る通りです。
欽ちゃんとの出会いがその後の小西さんの人生に大きく影響を与えたと思いますが、とにかく一生懸命にやってきた、その原点とは何でしょうか。
小西氏:この話はどこにも話したことはないのですが、実は私の祖母は、熊野古道のある地域でシャーマンとして有名な人だったんですよ。いつも白装束で多くの人が祖母を訪ねて来るのを子どもの頃から見ていました。
祖母は絶対に人からお金をいただかない。私が不思議に思ってそのことを尋ねると、「こんなもんは商売じゃない。お金をもらったらブレる」と言っていました。
私はそんな祖母が大好きで、いつも彼女の言う通りにしていました。そのなかで、祖母が私に教えてくれたことがあります。それは「人の悪口を言ってはいけない」「人を憎んだらいけない」「努力をしなさい。努力をすればちゃんと道筋をつけてくれるからあきらめてはいけない」、そして「すべては周りの人のおかげという気持ちを忘れない」ということでした。
この言葉は実は、萩本が常日頃から言っていることと同じだったのです。だから、祖母と萩本は私の人生の師匠なんです。私がガンになったときには、祖母はすでに亡くなっていましたが、もう1人の師匠がいてくれたおかげで私がガンになった意味を考えることができたのだと思います。
山本:ここまでのお話は聞いていて面白く、ついつい長くなってしまいましたが、ガンのお話をお聞きしないわけにはいきません。小西さんは45歳のときにガンを患われ、翌年の2005年に医者から「余命ゼロ」と宣告されました。その後、奇跡の復活と言われてすでに完治されています。
小西氏:実際にガンの前兆はありました。ガンだと知る前年からみるみる体重が落ちていって、最初はダイエット効果だと思っていました。その数年前にタバコをやめてその反動か体重が増えていましたから、やっと効果が現れたくらいに思っていたんです。
そのうち食欲がなくなってきて、何かおかしいと体の変調は自覚していたのですが、全国を飛び回っていましたので忙しいからだろうと自分を納得させていました。
しかし、今度はほとんど眠れないという状態が続きました。どうして眠れないんだろうと、ひと晩中もんもんと過ごして矢先、おぞましいほどの血尿が出たのです。そこで慌てて病院の泌尿器科を訪れました。そこでエコー検査をしたのですが、医者は結果を正確に伝えてくれません。検査画像の出る3時間後にまた診察室に来てくださいと言われ、私は近くの喫茶店で時間をつぶしながらも、どんどん不安が広がっていきました。
この日はクリスマス。世の中が幸せに包まれている日に、自分だけとんでもないクリスマスプレゼントを受け取ったという気分でした。
結局、泌尿器科では正確なことがわからないということで、慈恵医科大学附属病院で精密検査を受けることになりました。
家に帰った私は、大暴れをしながら泣き叫んでいました。それこそ家にあるものを片っ端から投げて、「なんで俺が? まだ45歳やぞ! まだ死にたくない!」と叫んで大暴れしたんです。
でも、不思議なことに気持ちがすっきりして、いつしか疲れ果ててぐっすり眠っている自分がいました。そのときに思い起こしたのは萩本の言葉でした。
「人生は50対50」。人生はいいこともあれば悪いこともある。どんな人にも幸せが起きれば、同様に不幸も起きる。萩本は「人生はその繰り返しだ」と言っていたのです。浮き沈みの激しい芸能界で生きてきた彼ならではの言葉でしょう。だからこそ、私は自分に訪れた不幸を受け止めることができたのです。
それでも感情の浮き沈みはありましたが、私はガンの告知を冷静に受け止めることにしました。しかし、「余命ゼロ」という告知。私のガンは腎臓にタテ20センチ、ヨコ13センチという、日本の腎臓ガン史上5本の指に入るほどの大きさだったのです。しかもそれが肥大しすぎているため隣の脾臓を圧迫し、いつ破裂してもおかしくない、つまりいつ死んでもおかしくないという余命ゼロと告知されたわけです。
それでも、私はすでにガンを治したあとの目標を立てていました。それは、ガンを治して「徹子の部屋」でその報告をするというものでした。そして、番組でこんなふうに話そうという予行練習までしていたのです。
ですから、先生のほか治療に携わってくれた医療関係者の方々と9時間以上におよぶ手術に臨みました。余命ゼロの私が前向きにガンを治すことを信じていましたので、周りの方々も私と同じ気持ちで治療にあたってくれて、手術は無事に成功したのです。
私の左わき腹には、いまでも大きく切られた跡がありますが、そのV字に切られた跡は「勝利のVサイン」だと思っています。
無事に手術が終わり、麻酔が切れたときが一番苦しかったですが、私はすぐにリハビリを始めました。まず、病院のパジャマから普段着に着替えるようにしました。パジャマを着ていると、自分は病気なんだということを無意識に感じてしまうので、まずはそこから変えていきました。そして、病院の長い廊下をウォーキングしました。
病院内を歩き回っていると、看護師さんからは「コニタン、頑張って」と声援を受けましたが、私は周りにいる同じように病気で苦しんでいる方々に一緒にウォーキングをしようと声をかけていきました。
そうしたら、最初は歩くのもままならなかった方々が私のウォーキングに参加し始めて、その数はどんどん増えていったのです。看護師さんたちからは「なんだかうちの廊下が小西さん主催のジムみたいになった」と茶化されるほどでしたが……。
私は、手術後は“ガンは治った”と確信するまでになりましたから、リハビリも順調すぎるくらいうまくいって、なんと術後9日で退院することができたのです。
山本:小西さんの考え方には本当に驚きます。普通ならガンと闘ってそれを克服するという思いですが、すでに治った自分をイメージして、病院でも普段の生活通りに行動する。とくに、ガンが治ったあとに何をしたいかということに意識を傾けることでいまの自分を変えてしまったという事実は、けっして奇跡ではないということを教えてくれます。
小西氏:私は、奇跡は常識の外にあるじゃないかと思っています。だから、身の回りのことを徹底的に前向きにとらえるようにしています。パジャマを普段着に変えることもそうですし、すぐにウォーキングをしようと思ったのも常識にとらわれないと考えた結果です。
だから、「徹子の部屋」に出ると強くイメージしたことも、奇跡ではなく実現しました。
私がガンであることは事務所の仲間以外には秘密にしていたのですが、スポーツ紙にすっぱ抜かれて1面に「コニタン、末期がんから生還!」と報じられました。その記事を読んだ黒柳さんから番組ゲストとしてオファーがきたのです。
私は番組で、予行練習をしていた通りに、晴れてみなさんに報告することができたのです。テレビカメラに向かって左わき腹の「勝利のVサイン」も披露しました。テレビで傷口を見せることは前代未聞のことだったようです。でも、私の傷口を見せることによって、それを見た多くのガン患者が「私も絶対に助かる」と勇気を持ってもらえればという思いでした。
その後、私がガンを治した経験を話してほしいと全国から講演依頼があり、ガンに悩む人たちに少しでも元気になってほしいという思いを届けることができたのです。
いまでも私がガンになったことは素晴らしい縁であったと思っています。萩本の「人生は50対50」という言葉の通り、ガンになったおかげで多くの方を元気にできるという幸せが訪れたからです。
山本:小西さんの元気な姿、ガンは治るというメッセージは、同じ境遇にいる方にとってとても勇気や力を与えてくれると思います。私は人にはお役目があって、そのお役目を果たしたときに死を迎えるのだと思っています。ですから、小西さんのお役目はまだまだ終わっていないのではないかと。だからこそお聞きしたいのですが、「週刊欽曜日」で苦楽をともにしてこられた清水由貴子さんが自殺されました。あのときの思いをお聞かせいただけますか。
小西氏:あのときはちょうど和歌山で講演をしていました。講演が終わったあとに「今日はめずらしく清水由希子さんの話をいっぱいされていましたね」と言われたんです。そのときはあまり覚えていないのですが、翌日に名古屋で講演した際も同じことを言われて。
その日、帰宅する新幹線の中でマネジャーから電話がありました。「由貴子ちゃんが……」と言われたとき、私は「死んだんか……」と答えているんです。
実は、和歌山での公演中に彼女は自殺を遂げて、名古屋での講演中に遺体が発見されていたんです。
その後、萩本が欽ちゃんバンドの仲間を集めて誰が代表でコメントするという話になり、萩本が「おまえガンをやってるから、おまえが言え」ということになって、私がしゃべることになりました。ただ、萩本は「何をしゃべってもいい。もしも問題になったら俺が責任を取る。だからいいか、お客様のためにという気持ちを持って話せ」と言ってくれました。
そこで私は「絶対に許さない!」ということを訴えました。それを見た多くの方から「死んだ人に向かって許さないとは何ごとだ」とかなりのバッシングを受けましたが、1人でも私の思いが伝わればいいという思いから出た言葉です。私は彼女の自殺で後追い自殺をする人が出てくることだけは避けたかったのです。
もちろん、彼女の自殺は残念でなりません。彼女の命日には毎年お墓に訪れています。仕事に対してとても厳しい人でしたから、私はしょっちゅう彼女から叱られていました。だからいまでもお墓の前で、「由貴子ちゃん、俺を助けてな」と手を合わせています。
自殺は悲しいことです。私は病院から退院した日に、外から大きな病棟を見上げて、「生きて出ることができた」という思いがあふれて号泣しました。だからこそ、生きているだけでいいんだ、生きているだけで人生は素晴らしいことなんだと思うようになったんです。
山本:清水由希子さんへの言葉は、後追い自殺を止めるための“お客様”へのものだったんですね。批判を覚悟のうえでの言葉にそんな深いメッセージがあったとは知りませんでした。たしかに自殺は悲しいことです。その前になんとか踏みとどまれなかったのか、周りの人がそれに気づいてあげられなかったという後悔が残りますから。生きているだけでいいという小西さんのメッセージは、余命ゼロから生還した小西さんだからこそ心に響いてきます。
小西氏:いまも多くの方が自殺されています。とくに子どもたちの自殺は、近年500人を超えています。その原因の一番は家庭の不和で4割を超えているんです。これは私のお役目かもしれませんが、どうしたら子どもが自殺しないですむだろうか、少しでも力になりたいと思って、これまでに「命の授業」として500校くらい講演で回りました。
そのときに、つらかったら思いっきり泣いていいんだよということを必ず伝えています。これまでの教育は「泣いたらあかん」といった我慢を強いるものです。そうではなくて、つらかったら疲れ果てるまで泣けばいい。我慢をするからその限界が超えてしまったときに自殺という選択肢が頭をよぎるのです。だから、講演の最後には「おまえら死ぬんじゃないぞ!」と言っています。
そんな講演を山梨の私学協会でしたときに、理事長から「通信制の学校の子どもたちは心が病んでいるから、『命の授業』を続けながら、そこで校長をやってほしい」という申し出を受けました。そして、2020年から日本航空高等学校通信課程の校長を務めることになったのです。
通信制に通う子どもたちは不登校や学校で問題を抱えた子が多くいます。私はそんな子どもたちが社会に適合できないことでダメな人間とはまったく思っていません。むしろ、みんな個性があって素晴らしい人間だと思っています。
発達障害と診断されたある生徒がいるんですが、私がとても仲良くさせてもらっている生徒です。私は彼がかぶっている帽子を見て「おっ、日本一野球の強い阪神タイガースの帽子やな」と言うと、「違います。世界一です」と。その子はプロ野球選手全員の出身校を小学校から知っているくらいですから、私が野球をやっていて「〇〇と友だちやで」という話をすると、もう目を輝かせながら話を始めます。彼は週1回コースですが、休まずに学校に来ていますよ。
子どもたちは、自分が大好きなものを大人が好きになってくれることで信頼してくれます。もうそなれば死のうなんて考えなくなると思うんです。通信制に入学させようとする親御さんたちには相談会というものがあるのですが、その席で私は必ずこう言います。
「これまで大変だったですよね。子どもを思って厳しくしたこともあると思います。この子のためにと思って何度も泣きましたよね。でもそれは、子どもへの愛情があるからです。だからお母さん、毎日ではなくてもいいですから、この言葉言ってあげてください。『私はいまのあなたが大好きよ』って」。
みなさん泣きながらも喜んで帰っていかれます。親が自分を愛しているとわかれば、その子は絶対に大丈夫なんです。社会に合わなくても親が自分を大好きでいてくれれば死のうなんて思わないんです。
校長としての私の考え方も社会から外れているのかもしれません。でも、誰だって生きているだけで素晴らしいんです。萩本が言った「人生は50対50」。人生は幸せも不幸せも繰り返す。だからこそ、50+50で100。生きているだけで100点満点。私は、それ以上だと思っています(編集注:『生きているだけで150点!』毎日新聞出版刊を上梓している)。
いま振り返ると、教師になりたいという夢まで叶いました。ガンにならなければこの夢は叶わなかったかもしれません。だからこそ私は、生きていることに感謝する毎日を送っていますよ。
山本:人生は幸せと不幸せの繰り返し。でも生きていれば人生は幸福なものだったんだと気づかされる。まさに生きる素晴らしさを教えてくれるお話です。本当にパワフルな小西さんですが、これからも多くの方を喜ばせ、元気にしていっていただければと思います。本日はありがとうございました。