著名人との対談

VOL.60

黒木瞳氏×山本一郎

幾多の死を見つめてきたからこそ知る。強くしなやかに生きる女優の姿

黒木瞳氏×山本一郎

対談相手のご紹介

黒木瞳氏×山本一郎

女優 黒木瞳氏

黒木瞳

Hitomi Kuroki

10月5日生まれ、福岡県出身。A型。ポエムカンパニーリミテッド所属。1981年に宝塚歌劇団に入団し、娘役のトップスターとして活躍、1985年退団。翌年NHK連続テレビ小説『都の風』に出演。同年の渡辺淳一の小説を映画化した映画『化身』では『第10回日本アカデミー賞』新人俳優賞を受賞。同じく渡辺原作の『失楽園』(97年)では、同最優秀主演女優賞を受賞した。またエッセイ集、詩集、翻訳絵本など、他分野でも精力的に活動。
その他の主な出演作として、ドラマ『恋を何年休んでますか』(01年)、ドラマ『白い巨塔』(04年)、ドラマ『嫌な女』(06年)、ドラマ『過保護のカホコ』(17年)、映画『20世紀少年』シリーズなど。

対談の様子

山本:今回の対談は私にとって記念すべき60回目ということで、女優の黒木瞳さんをお迎えしました。黒木さん、よろしくお願いいたします。

さて、最初に黒木さんのご家族についてお聞きししたいと思います。黒木さんはご自身も「田舎育ち」と公言されていますが、福岡県八女市、昔の八女郡黒木町というところで育ったそうですが、どんな環境だったのですか。

黒木氏:私は4人兄弟の末っ子で、父は畜産業、母は食堂を経営していて両親はいつも忙しく、家にはいないという生活でした。だから小さい頃から祖母と一緒にいる時間が長かったんです。祖母には長女と私の父である弟の2人の子どもがいて、夫が20代で腸チフススで亡くなっているんです。しかも、その1週間後くらいに、まだ3歳だった長女も亡くなってしまい、それで当時1歳だった父を連れて博多から実家に戻ってきたのが、私の育った黒木町なんです。

そんな祖母は、私が歌を歌う姿が好きで、いろいろな歌を教えてくれました。最初に教わって歌ったのが三沢あけみさんの『島のブルース』という曲です。この曲は近所のおばあさんたちの前でも披露していたのですが、地域ののど自慢大会に出るようになったのも祖母の影響でした。

祖母の晩年は、痛い膝をさすりながらよく相撲中継を観ていました。そのときは私に「お酒を燗にして持ってきて」と頼んでは、日本酒をちびりちびりやりながらテレビを観ていました。私が相撲好きなのも祖母の影響です。

だからでしょうか、私は祖母の人生に興味があって、父や母が祖母について話していたことをつなぎ合わせて祖母の人生に思いをめぐらせています。ただその中で、最近気づいたことがあるんです。それは『島のブルース』の2番以降の歌詞に、祖母の心が描かれていたんです。

当時同じ長い黒髪だった私と同じ「長い黒髪 島の娘島娘よ」と1番の歌詞を歌っていたのですが、その後の歌詞は、好きだったあの人はいま、起きているのだろうか寝ているのだろうかとわが身の寂しさを思い、最後は家を出て行ってしまったあの人に大島つむぎを着せたいと、なさけひとすじの女の情を歌っていたんです。

祖母は息子1人と実家に帰って肩身の狭い生活をしていて、子どもを育てるためにうどん屋を始めたそうです。そのうち、祖母を好きになった男の人ができて一緒に暮らすようになるのですが、その人は別に好きな女性ができて家を出て行ってしまいました。

祖母がいつも私に歌いなさいと言っていたのが『島のブルース』。祖母の唯一の楽しみが相撲をテレビで見ながら日本酒を飲むことでしたが、あの姿はいま思うと、祖母の寂しさそのものだったように思うんです。

 

山本:たしかにおばあさまが生きた時代というのは、『島のブルース』のような女の情や恨みつらみの歌詞が多かったですよね。そんなおばあさまの人生を黒木さんが歌っていたというのも感慨深いものがあります。おばあさまが亡くなられたときはどんなことを覚えていますか。

 

黒木氏:祖母が亡くなったのは私が小学5年生のときです。祖母は自宅で亡くなったのですが、当時は普通のことでした。そこから火葬場までお棺を運んでいくのですが、見送る家族は靴を履くときに玄関ではなく畳の上に靴を置いて、そこから履いて出かけるんです。田舎の風習かもしれませんが、亡くなった家族と家の中から一緒に連れて行ってあげるという思いなんでしょうね。そのことをよく覚えています。

だから、夫がたまに玄関先に忘れものを取ろうとして靴を履いたまま玄関に下りようとすると、「死にに行くんじゃないんだから」と言ってしまいますね。

ただ、私にとって祖母の死が人生で初めて接した死というものでした。子どもの頃にそういった経験をしたからなのか、私の人生の中でも死というのはいつも頭の片隅にあって、それが生き方にもつながっているように思います。

山本:子どもの頃に祖父母の死などを体験することは、その人に人生にとっても大事なことで、いまは自宅で死を迎えたいという人も増えています。看取る家族も病院ではなく自宅で亡くなっていく姿に、その方の人生に思いめぐらせる貴重な時間になると思うんですね。故人がお墓に埋葬されても、生前の姿を忘れないで自然とお墓に足が向くようになる。人がお墓に参るのはそんな思いからなのでしょうね。

 

黒木氏:亡くなった方が人の心の中で生き続けるって素晴らしいですよね。私はショパン(編集注:1810~1849年、39歳没)が好きで、ショパンの心臓があるというポーランドの首都ワルシャワにある聖十字架教会を訪れたことがあります。

ショパンはロシア帝国の支配に対してポーランドが起こした11月蜂起が失敗したことを悲しみパリへ行くのですが、その後は二度とポーランドに帰ることはなく、ポーランドの大移民の1人になったんですね。

そこから作家ジョルジュ・サンドと恋に落ちて2人の生活が始まるのですが、ショパンは生来、病弱で肺病を患っていましたから、暖かいスペインのマジョルカ島で過ごすんです。けれども肺の疾患ということで、島の人たちから嫌がられて、村から離れたマジョルカ島の丘にある修道院の軒を借りて過ごすことになります。私もその修道院に行ったことがあるのですが、修道院は石でできていますのでものすごく寒いんです。だから、彼の体にもまったよくないんですよ。

ショパンがマジョルカ島で過ごしたのは冬の11月から2月の3カ月間です。その間、フランスからピアノを運び込むのですが、税関で止められてしまって届いたのは1月。もうマジョルカ島をあとにする頃だったんです。でも、その1カ月間で、あの有名な『雨だれ』(編集注:『前奏曲0p.28』15番 変二長調)を作曲しています。彼の短い生涯で最も創造的な時期の1つと言われているんですね。彼が寒くて雨がしたたるマジョルカ島で曲を書いたと思うと、『雨だれ』という曲に込められたものが、また心に響いてきますね。

それで、ショパンはフランスで亡くなるのですが、彼のお姉さんが故郷に連れて帰りたいと、必死の思いで心臓だけを持って帰るんです。その心臓が聖十字架教会の柱に埋められていて、私もその柱の前で手を合わせてきました。それは私が『白い巨塔』の撮影でポーランドを訪れたときのことです。

山本:故人が祀られている場所で、その人の人生に思いを馳せる。ショパンのお話はとても勉強になりました。『白い巨塔』は私も大好きなドラマで、毎年関西のテレビ局で再放送されるのですが、毎回観ていますよ。ポーランドでのシーンはまた違った思いで観ることができそうです。

実は、私はパリにあるショパンのお墓には行ったことがあります。そこはペール・ラシェーズ墓地(編集注:ショパンのほか、バルザック、ドラクロワ 、ロッシーニ、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ、オスカー・ワイルド、モディリアーニ、プルースト、エディット・ピアフ、マリア・カラス等の世界的な著名人の墓が多くあることで知られる)という有名なところなんですが、オスカー・ワイルド(編集注:1854~1900年、49歳没)のお墓もあって、フェンスで囲まれてしまったんですよ。

彼のお墓はキスマークだらけで、石でできた銅像の性器の部分がノミで削り取られてしまって。けっこう大きい銅像なんですが、見るとどうしてこんなところにまで付いているんだろうと思うくらい高いところまでキスマークがあるんです。おそらく梯子を使ったんでしょうね。だから、フェンスで囲まれてしまったのだと思います。

 

黒木氏:ペール・ラシェーズ墓地ですか。ぜひ行ってみたいですね。私もパリは大好きで、ゴッホ(編集注:1853~1890年、37歳没)の終の住処だったオーベル=シュル=オワーズという農村の宿屋を訪れたことがあります。彼はそこで拳銃自殺で亡くなるのですが、下宿していた部屋がまだ残っています。1階がレストランで、ここの家庭料理が美味しいんですよ。

ゴッホはその2階で亡くなったんですが、近くにゴッホのお墓があります。そこには、ずっと仕送りしてゴッホを援助し続けた弟のテオと一緒に並んで眠っているんですよ。ゴッホの最期を看取ったくらい兄思いでしたから、テオの遺族はゴッホとずっと一緒に眠ってほしいという思いがあったのだろうと想像しながらお墓を拝見しました。2つ並んだお墓は、いつしか蔦がつながっていて本当に仲の良い兄弟だったんだなと思います。

その話で思い出しましたけれど、仲睦まじい夫婦を“おしどり夫婦”と言いますが、面白い話があります。おしどりって実は、オスはメスに子どもを産ませたら次のメスを求めて去っていくんです。そして次の年は、違うメスとつがいになるんですよ。

それなのに、 おしどり夫婦”ってなぜ言うのか。これは紀元前の中国の話ですが、宋の王様が家臣の美しい妻に横恋慕して、強引にその妻を奪ってしまうんです。悲しみにくれた家臣は自ら命を絶ち、それを知った妻も後追い自殺をしてしまいます。妻は「夫と一緒に葬ってください」という遺書を残しましたが、そのことに激怒した王様は、2人のお墓を背を向けたようにして別々に建てるんです。ところが、両方の墓から木が伸び、ひと晩で枝が絡み合うようになるまで成長したそうです。

その木にたまたま、おしどりが巣をつくって、1日中鳴いていて、そこから仲睦まじい夫婦のことを“おしどり夫婦”と言うようになったそうです。そんな悲しい話があるんですよ。

山本:それは知りませんでした。お墓ひとつとっても、さまざまなストーリーがあるんですね。私も有名な方々のお墓を見てきましたが、私が好きなお墓はスイスにあるオードリー・ヘプバーン(1929~1993年、63歳没)のお墓です。彼女のお墓はスイスの片田舎にあるのですが、本当につつましい小さなお墓です。でも、お墓の前に広大なひまわり畑があって、その奥にひっそりとたたずんでいるんです。その風景が素敵で、どこかヘプバーンらしさを感じました。

それにしても、黒木さんとお墓談義ができるとは思いませんで、つい私の話もしてしまいました。黒木さんは、そうした故人の人生を思い返しながら、彼らの心を大切にされていますが、演出家の武市好古(1935~1992年)さんの死も、フランスとつながっていたのですよね。

 

黒木氏:武市さんとは、どちらが先か、何がきっかけかは記憶にないのですが数年間、文通を交わしていただいた仲でした。その中で女優としての生き方をたくさん教えていただいたのですが、「美しさ(Beauty)」「おもしろさ(Funniness)」「感動的(Deep)」を兼ね備えた女優を目指してほしいという文章が、いまも心に残っています。

あるとき、武市さんから「ドーヴィルにいます。お土産は何がいいですか?」という葉書が届きました。私は迷わず「映画『男と女』の舞台となったドーヴィルの海岸の砂がほしい」と書いたのです。

映画『男と女』は、1966年にカンヌ映画祭グランプリを受賞した作品です。詳細は省かせていただきますが、妻と死別したカーレーサーの男と夫を持つ女が出会い、そして恋に落ちていく大人のラブストーリーです。この時代に、フランスではこんな映画を撮っているのかという衝撃を受けた作品ですが、その出会いの場所がフランス北部に位置するドーヴィルの砂浜だったんです。

どうやってフランスから砂を送れたのかわかりませんが、武市さんは本当にドーヴィルの砂を送ってくださったのです。それからしばらくしてでしょうか、1枚のファクスを受け取りました。武市さんの告別式の案内でした。

私は夫と武市さんの告別式に参列しました。実は、武市さんとは一度もお会いしたこともなければ、どんな声で話されるのかさえ知らなかったのです。私は手を合わせながら、その不思議な縁に涙が止まりませんでした。一生続く文通相手だと思っていたんでしょうね。勝手に私を置いていくなんてと、何とも言えない孤独が押し寄せたのを覚えています。

 

山本:一度もお会いしたのことない、それも数年間の交流の中での突然の死の知らせ。そんなご経験をされている黒木さんには、一番お聞きづらいことかもしれませんが、宝塚時代にこれまた数年間、苦楽を共にした親友、北原瑶子さんのお話をお伺いしてもよいでしょうか。

 

黒木氏:あの日航機墜落事故(編集注:日本航空123便墜落事故、1985年8月12日)の話ですね。あれはちょうど、私が宝塚を卒業する東京での「退団公演」のときでした。その公演に由美子(編集注:本名「吉田由美子」)が観に来てくれることになっていました。

事故が起きる前、8月12日の午前午後の2回公演の合間の休憩中に、楽屋に由美子から電話があったんです。「これから行くからね。明日の夜に会おうね」って言って、いつもだったら「うん、わかった、わかった」とすぐに電話を切るんですが、その日にかぎって、これは不思議なんですけれど、「明日、東京に帰って来られないかもしれない」と言うんですよ。私は「なに言ってんのよ、明日会いましょうよ」って言いながらも、結局30分くらい彼女と話をしていたんです。

その日の夜、公演が終わって11時くらいに帰り、日本航空機の墜落事故があったというニュースを聞きました。私はその瞬間、「あっ、乗ってる」と悟りました。由美子が何便に乗るということも知りませんでしたが、「由美子は乗っている」としか思えなかったのです。その後、彼女のご実家に電話しても出ないので、やっぱりそうかと確信に変わりました。

私の母に電話をしても、何も言ってくれない。親友のことだから余計に何も教えてくれないわけです。それで一晩中ラジオをつけていたら、ラジオから彼女の名前が読み上げられて……。

それでも翌日も公演がありました。同期生もつらいのに舞台袖で、「しっかりしなきゃいけないんでしょう!」と言って背中を押してくれるわけですよ。でも、どうやって乗り切ったかよく覚えていないんです。

ただ、ご遺体が見つかってよかったなと思います。8月15日に見つかって、由美子のご両親も「今日は花火大会だったから、娘に花火を見せられてよかったわ」としみじみ話されていたんですが、あのときの私はすべてを恨みました。いまならもう少し理性が勝っていたかもしれませんね。

もしかしたら戦争と同じようなもので、ある日突然、隣で一緒に戦っていた人が打たれて亡くなるというような衝撃なのかもしれないと、いまなら思うことができます。人間にとって死というものは当たり前にやってきます。それが私の場合、身近に起こった出来事なんだと思うしかありません。

由美子のお墓は東京にあって、毎年お墓参りは行くのですが、まだ一度も御巣鷹山に登ることができません。この39年間ずっと。

今年、8月12日の39年目のニュースを見ていたときに、夫が「登るなら来年一緒に登ってあげるぞ」って言ってくれたんですよ。でも、私が由美子の死を納得していないんです。たった数年間でしたが本当に何でも話せる親友でした。だから、頭ではわかっていても、御巣鷹山に登ったら由美子とも最後なんだと受け入れてしまう自分が怖いのかもしれません。だから、認めたくないという気持ちがまだあるんでしょうね。

でも、来年は事故から40年。来年には行こうという気持ちにはなっています。

 

山本:いま涙を流されながらお話をされている姿を拝見していて、あの出来事を風化させてはいけないと心に刻みました。つらい話をしていただき本当にありがとうございます。子どもの頃のおばあさまの死、一度もお会いすることのなかった武市さんの死、そして、何より親友を亡くした突然の事故。そんな過酷とも言える死に接して、黒木さん自身はどんな影響を受けてきたのでしょうか。

黒木氏:どんな影響を受けたかはわかりませんが、死ということ、裏を返せばどう生きるべきかということはいつも考えさせられます。最近読んでよかった『あした死ぬ幸福の王子』(編集注:ダイヤモンド社刊)という本があります。

ハイデガーという哲学者の哲学をわかりやすくストーリー形式で綴ったものなんですが、その中で「人はなぜ死をおそれるのか」や「自分の存在は何か」や「過去や未来とは何か」といった、私たちが生きていくうえで考えるべきことが述べられています。私がなぜこの本を手に取ったかというと、物語の主人公である王子が、自分の死期が明日かもしれないし、1カ月後かもしれないと医者に宣告されて自暴自棄になってしまうというはじまりから興味を持ちました。

王子ですから、いままでいろいろな人たちにちやほやされたり、いつも豪華な食事が出たりという生活をしてきたわけですが、それらが虚しくなるのです。いったい自分はどう生きてきたんだろうとなったときに、ある老人と出会います。そして、その老人がひと言、「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだな」と言うのです。王子がその後、老人との邂逅によって変わっていくのですが、本のネタバラシになってしまうので、この先は言いませんけど。

本を読んだ方のそれぞれの受け取り方なので私の感想ですが、王子がいまをどう生きるかっていうことに尽きるわけです。だからこそ、幸せに生を全うしたいと思うようになるのだと思いました。

失礼かもしれませんが、朝に元気よく出かけて行って交通事故にあって亡くなってしまう方もたくさんいます。自分も明日は生きているかわからない、そんな世界に私たちは生きています。

だったら、あと3年命があるとしたらその間に何ができるか、1カ月だったら1カ月で何ができるのかというような生き方そのもの、何か覚悟というようなものを感じたんです。ですから、自分が1日1日、もっと言うと1時間1時間、1分1分をどうやって生きていけばいいのかということを考えさせられましたね。

 

山本:その通りですね。私は亡くなるということには、すべて意味があると思っています。それは人生お役目のようなものではないかと年を追うごとに感じています。去年のことですが、お客様がうちの霊園にお墓参りの最中に倒れて亡くなったことがあるんです。AEDで対処して急いで救急車を呼んだのですが、残念ながらお亡くなりになりました。

これが若いうちであれば運が悪かったくらいに思ったでしょうが、そうではないと思ったのです。というのも、亡くなられた方はご主人のお参りに親族みんなで来られていたのですが、ご主人のことが大好きで、ちょうど1年後のお参りときの出来事だったんです。

その後、親族の方と話をしたのですが、奥様のお役目がここで終わって幸せだったのかもしれませんということを言っていたと思います。幸せな死とは、悔いのないように生き抜くということを黒木さんのお話からも感じました。

 

黒木氏:たしかにご主人から呼ばれたという人もいるかもしれませんが、奥様はご自身の人生を全うしてお役目を終えてご主人に会いに行ったのかもしれませんね。それはすごく信じられます。

私は子どもの頃からいくつもつらいことがあって、もう生きていけないくらいつらいこともありました。そんなときに、人は「ああ、もう死ねばいいんだ」って思ってしまいます。でも、どうせいつか死ぬんだから、死ぬくらいなら頑張ろうって、ずっと思ってきました。

私もだいぶ年を重ねてきましたから、大切な方々が亡くなっていきます。「こういうふうにして亡くなったのよ」とか、「今ここにいるのよ」といった話をご家族の方から聞くと、亡くなった方には何もして差し上げられないけれど、ありがとうっていう気持ちで手を合わせます。私もお役目を終えるときがきたら、人から感謝されるようにこれからも生きていきたいですね。

 

山本:死というのは悲しいことですけれど、やっぱり作ってきたものはなくなりません。亡くなった母が、よくスターの人がテレビに出ていると、亡くなった人がずっと見られるので、「この人たちいいよね。亡くなっても影響を与えていけるんだから」とよく言っていました。だから、黒木さんはこれからもずっと生き続ける存在なのだと思います。最初に盛り上がった有名人のお墓参りではないですが、黒木さんはどこで生き続けるんでしょうか。

黒木氏:私は嫁に行った身なので、夫のほうのお墓に入ることになるでしょうか。実家は長男の兄が継いでいますが、実はうちのほうは納骨堂で骨壺が1つしか収められないんです。1つしかないからどうするのかというと、たとえば父が亡くなったら、それまでの納骨堂に収められていた祖母の骨壺の骨を納骨堂の下の土に帰して、父の骨を入れるんですよ。

つまり、1つの骨壺で納骨して、下の土にはご近所さんの骨もすべてそこにある。これは兄がやることなのですが、できないと言うので私が代わりにやっているんです。

私の母はくも膜下出血で亡くなりましが、その時の治療で出血部分を医療器具の金具で止めていたんです。半年くらい意識不明のままで亡くなったんですが、四十九日で実家に帰ったときに、まずお母さんに会おうと思って、「ねえ、お母さん帰ったよ」と言って骨壺を開けたら、その上に金具が入れてあったんです。その金具は持って帰って、いま自分の家に置いています。

もちろん、法事の際には実家に持って帰りますが、実家の納骨堂の世話をするのは私のお役目なのかもしれませんね。ですから、和尚様に「大丈夫ですよ。嫁に行っても入って」なんて言われましたけれど。夫のほうは鎌倉の円覚寺ですが、もう娘もそのうち嫁に行きますから、うちら夫婦で終わりかもしれないですね。

先ほど山本社長がおっしゃっていた、作品は後世にも残って、ずっと生き続けるというお話ですが、私がどう生き続けるかはわからないですね。それは後世の人たちが「あっ、黒木瞳はこんな女だった」って思うことであって、私がこうだったっていうのはやっぱりわらないですよ。だからこそ、自分はいつ死んでもいいと思えるように、いまを精いっぱい生きていくことだと思っています。

 

山本:死とはまさに精いっぱい生きること。そんなことを黒木さんから学ばせていただいたように思います。私もお話した通り『白い巨塔』が大好きで、黒木さんのファンでもあります。これからも黒木さんの生き生きしたお姿を見続けていきたいと思いますので、今後のご活躍をお祈りいたしております。本日はありがとうございました。