著名人との対談

VOL.58

牛島和彦氏×山本一郎

1人で投げ続けた伝説の名投手。数々の伝説の中に不屈の人生を乗り越えた人生観を見る

牛島和彦氏×山本一郎

対談相手のご紹介

牛島和彦氏×山本一郎

元プロ野球選手(投手)・監督 野球解説者

牛島和彦

Yasue Michi

1961年4月13日生まれ、大阪府出身。小3から本格的に野球に取り組み、投手ひとすじ。中3のとき、大阪府の大会で完全試合を達成。名門・浪商ではドカベン香川(元ダイエー)とバッテリーを組み、甲子園に3回出場。79年春に準優勝した。その年のドラフト1位で中日に入団。高校時代から投げていた落差の大きいフォークボールを武器に82年ストッパーに転向、リーグ優勝に貢献した。86年オフ、ロッテに移籍。87年、史上4人目の通算100セーブを達成。90年に右肩を痛め、長いリハビリ生活をへて復帰したが93年、現役引退。2005~06年、横浜の監督を務める。現在は野球解説者として活躍

対談の様子

山本:本日は私の高校の大先輩、牛島和彦さんにお越しいた

きました。牛島さんといえば、私の中で忘れられない出来事があるんです。それは昭和54年の選抜大会の第1回戦3日目の329日です。あの日はPL学園、浪商、高知商業の試合が組まれていて早朝から長蛇の列でした。私もその列にいたのですが、将棋倒しに人が倒れ

たということでチケットが買えず外野席で観戦しました。あとで知ったのですが、その将棋倒しで小学生2人が亡くなったと、自宅に帰ってから親に知らされました。

 

 

牛島氏:その事件はあとで知りましたよ。選抜大会で僕は1回戦からガンガン投げていましたから、あのときは立ち見のお客さんもいて、とにかく人がたくさん入っているなと思っていたくらいでした。実は決勝戦が終わったあと、亡くなった子が浪商のファンだったということで、香川(注:香川伸行、元南海ホークス選手)たちとユニフォームを着て線香を上げに行ったんですよ。

 

山本:そうなんですか。あの出来事のあとにそんなエピソードがあったんですね。牛島さんは当時、高校野球のスター選手でしたから、浪商ファンという子どもも多かったと思います。選抜ではほぼ1人で投げられていたと思いますが、あの名勝負、浪商VS簑島の決勝は打撃戦となりました。やはり互いのピッチャーがそうとう疲労がたまっていたのではないですか。

 

牛島氏:疲労ってもんじゃないですよ。3年生の春の選抜といっても、僕は1年生のときから予選であろうと本戦であろうと、とにかくずっと1人で投げ続けていましたから、疲労がどうこう言う世界じゃなかった。選抜でも決勝までの5試合すべて1人です。もう150球、200球と投げ続けていましたから。

3回戦の川之江との試合は延長13回で270球投げたけど、雨の中の延長戦になってね。もうグラウンドが水で浮いてきてぐっちゃぐちゃなのに、まだやるかみたいな感じでした。僕らが試合を終えて次の試合を見たらもう田んぼの中でやっているみたいな光景ですよ。チームメイトと早めに試合してよかったなんて冗談を言っていました。決勝の簑島戦は5試合目でしたが、簑島は抽選のおかげで決勝が4試合目でしたから、あの1試合少ないのはそうとう楽ですよ。

山本:牛島さんの浪商時代は、本当に名勝負が多くて、その中でも高校球史に残る名勝負が、その年の夏の甲子園1回戦の上尾戦です。のちに同じ中日ドラゴンズで活躍する仁村徹投手との投げ合いで、牛島さんが放った9回ツーアウトからの劇的な同点ツーランホームランでした。土壇場でのホームラン、あのときはどんな心境だったのですか。

 

牛島氏:チームでも仁村の球は打てないという感じでした。僕は開き直れるタイプなので、正直負けたなと思って最後の打席に立ったんだけど、1球目にパーンと真っ直ぐがきてやっぱり無理だと。でも、前の打席で次の球が変化球で泳がされてアウトになっていたから、2球目は変化球がくると踏んでカーブを待っていた。とにかくインサイドから入ってくるカーブなら打てるかもしれないと思っていたらその球がきて、振り抜いたらホームランだった。でも、ホームランは高校生活であれ1本だからね。あのホームランが最初で最後。

 

山本:そうなんですか。とにかくあのホームランは私にとっても忘れられない名シーンでした。もう高校時代の牛島さんの話は尽きないのですが、そんな名投手を生んだ背景についておうかがいしたいと思います。牛島さんは大阪大東市のご出身ということで、子ども時代はやはり野球少年だったんですか。

 

牛島氏:僕は2歳まで奈良で、3歳から大東市で育ちました。僕らの子どもの頃は何の遊び道具もないからボールとグローブを持って壁当てをして遊んでいたような時代です。子どもが野球をする少年野球チームというのもなくて、大人が草野球をしていました。そういった大人の草野球を叔父がやっていて、大人たちが試合をやっている横でボール投げたりとか、手が空いている大人がキャッチボールをしてくれたりとか、そんなのどかなところで遊んでいた程度です。

まだ当時は小学校低学年で野球をやるという環境はなくて、5年生になって初めて学校のクラブで軟式野球ができる時代です。ただ、野球は好きでしたので、近所で軟式野球のチームがあって小学5年生のときに野球を始めました。それこそ僕の地元はかなり田舎で、そもそも野球で甲子園に行くとか、プロに入るとかまったく考えていなかったですよ。ただ野球が好きで、ボールを投げるのが好きだったといったくらいです。

中学校のクラブもサッカー部入ろうかなと真面目に考えていました。ただ小学校のときから野球をしてきた友だちが多いので野球部に入ったような感じです。それで1年生の夏に外野手として試合に出たんですが、1つ上の先輩らとやり合って野球部を退部したんです。だから、1年間は帰宅部としてまったく野球をしていません。それから2年生の夏に先輩らがクラブを卒業していなくなったので同級生たちが「ピッチャーいないし、野球部に戻って来てくれ」と言われて、そこからまた野球を始めたというのが中学時代です。

 

山本:大人の草野球に連れられて野球が好きな少年時代を過ごした、もしかしたら時代的に多くいた少年の1人だったのかもしれませんね。それにしても中学時代に野球部をやめていたのには驚きました。

もし同級生に呼び戻されていなかったら投手牛島は誕生していなかったのかもしれません。逆に言えば、投手としての牛島さんはそこからだったんですね。

 

牛島氏:そうですね。2年生の夏に野球部に戻って、3年生最後の夏の大阪大会の1回戦は完封だったかな。そして2回戦で完全試合をして、その次が香川がいた優勝候補の大体附中(注:現大阪体育大学附属中学校)。大阪ではもう毎回優勝候補なんだけど、その大体附中に13回まで投げた。12回で2対2の同点。大会の規定では延長12回で引き分け再試合なんだけど、その後の球場日程が取れないとか何とかで決着をつけてくれということになって、延長13回、結局2点取られて負けたんだけど、この大会で高校からも注目されるようになったんだよね。もともと僕のいた四条中学校なんて、グラウンドが狭いからサッカー部と交渉しながら使っていたくらいだから。そんな無名の学校にすごいピッチャーがいるって名前が出て、そのときに初めて上の世界で野球をやってみようと思い始めました。

 

山本:先ほど浪商時代の伝説的な試合のお話をうかがいましたが、私も浪商の後輩として高校時代の生活についてもお聞きしたいです。私たちの時代は先輩たちの“しごき”ってありましたが、野球部生活もいろいろとあったのではないでしょうか。

 

牛島氏:浪商には特待生で入ったんだけど、理事長の声掛か

りの特待生みたいのだったらしくてね。だからそのぶん周りは面白くなかったのかもしれないけれど、僕にしてみれば、これは辞めるに辞められないみたいな感じですよ。しかも理事長じきじきの特待生って、高田さん(注:高田繁。元読売ジャイアンツ選手、ヤクルト監督他)と僕の2人しかいない。だから、ここはもう歯を食いしばってやるしかないと思っていました。

中学校の卒業式が3月半ばにあって、それが終わったらもう浪商の練習に帯同して、練習試合で投げていました。付属中上がりの香川と昭良(注:山本昭良。元南海ホークス選手)で3年後には強いチームをつくるということで浪商に入ったわけだから、もうその頃からレギュラーとして投げ続けていました。だから痛いの痒いの言う前に試合に出ろと。嫌だのそんなの言っている暇はなかった。もう嫌なことはいっぱいあった。先輩からのやっかみは当然あって、そのぶん厳しくご指導はいただいたけどね。

ここだけの話、当時はということで言えば“集合”って先輩に後輩全員が呼び出されるのがありました。連帯責任ということでしごきに遭うんだけど、あの声を聞いたら、もうみんな憂鬱になっていました。たぶん浪商のOBは全員、集合って言葉はトラウマなんじゃないかな。

あとはいまとは違って、水を飲むことができなかった。グラウンドに水を撒くためのドラム缶が4つあったんだけど、水を汲むときにアンダーシャツまで濡らして、あとでチュッチュッ吸っていたからね。

 

山本:みんなやっていましたよね。集合に関しては私もトラウマですよ。いまだと意味のわらない伝統というか……。もう軍隊そのものです。

そんななか牛島さんも3年間野球を続けて、甲子園でもスター選手となりました。そして、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団されるわけですが、当時の大先輩が星野仙一さんですね。

 

牛島氏:星野さんはいまではあの人自体が伝説なんけど、現役時代の伝説もいっぱいある。打たれたりするとベンチで癇癪を起こすので有名だったけれども、でもあの方はすごく優しい人でした。本当は優しくて涙もろい人で、それを出せないでいた人だと思う。僕は入団1年目からすごく可愛がってもらって、星野さんとのエピソードもたくさんあります。

1年目のオフに投手界のゴルフコンペがあるんだけど、星野さんから「俺のところに朝来い」って言われて、寮からタクシーに乗って5時半頃に行くわけ。すると奥さんがトーストとコーヒーと出してくれて出発まで待っていて。そのうち、星野さんが荷物を詰め終えて「行くぞ!」って車に乗るんだけれど、星野さんの知り合いも一緒にいて、僕は後ろのシートにじっと座っているだけ。ゴルフ場に着いてみんなの荷物を降ろしたあと、星野さんがひと言、「車、駐車場に停めてこい」って言うのよ。星野さんのベンツの車をどうやって停めればいいわけよ。あのときは本当にビビったね。

でも、本当に優しくて可愛がってもらいましたから、ベンチでもけっこう星野さんの横におりました。ベンチでは星野さんの登板のときはグラスの水を用意していたんだけど、試合で打たれて腹が立つとグラスを投げつけてバリーンと割ってしまう。それをいつもチリトリで片づけなきゃいけないもんだから、あるときからプラスチックのコップに替えたのよ。そうしたら、カーンっていって割れない。星野さん、それに腹を立てて「俺が金払うから、おまえ陶器のやつ買ってこい!」って。

もうそんなんだから機嫌の悪いときは誰も近づけないんだけど、僕は星野さんがホームランを打たれたときに、殴られてもいいからと思って「なんで打たれたんですか?」って聞いたことがあるのよ。そうしたら、「あのケースで、このカウントであの球投げて、真ん中いったらホームラン打たれる。それは絶対ダメだ」と横で教えてくれるんです。私にとっては面倒見のいい優しい先輩でしたね。

ちなみに、星野さんはリーグ優勝した1982年に星野さんは引退するんだけれど、引退試合のセレモニーのときも僕はそばにいました。車で名古屋球場1周したんですが、星野さんが1段上のところで手を振っている下の座席で、泣いているからタオルを渡したり、受け取った花束をまとめたりしていましたから。あの年のシーズン後半に僕は肘を痛めて2軍にいたんだけど、巨人との熾烈な優勝争いで1軍に上がってこいという招集がかかって、痛み止めを打ちながらサポーターを巻いて投げていました。そのときも星野さんは心配してくれていろいろと上に言ってくれたらしいんですけど、いま思うと、それ以降は優勝できなかったからよかったと思っています。

 

山本:星野さんと牛島さんの知られざる関係をお聞きできて、先輩後輩の絆のようなものを感じました。牛島さんはその後、肘を痛めながらもリリーフから先発に回って10勝を挙げたり、リリーフでは最多セーブ投手も獲得される活躍でした。そして、プロ野球史に残ると言ってもいい、ロッテ落合博満選手との41トレードがありました。

 

牛島氏:ちょうど星野さんが監督になる直前でのトレードで、僕が25歳のとき。そのときは何でって思ったけど、いまではいろいろといい経験ができたかなという思いはあるかな。トレードが決まって、向こうで住むところを探さなければということで、1225日のクリスマスの日ですかね、東京行きの新幹線に乗るためにホームにいたんです。そうしたら星野さんが見送りに来てくれたんですよ。でも、星野さんが監督になる前にトレードに出されて、ありがとうございますって言うのも変だし、冗談で「落合さんのお迎えですか」って言ったら「ばかもーん!」と怒られました。

僕が現役を引退するときも、「仕事は大丈夫か。いろいろ紹介するぞ」と言ってくれて、本当に情の深い方でした。

 

山本:牛島さんはロッテに移籍してからも最多セーブ投手になったり、自己最多の勝利数を挙げましたが、その後は怪我との闘いでした。自身最多12勝を挙げたあとに肩を壊し、その後に血行障害になって2年半近く治療・リハビリに専念されました。そんな牛島さんだからこそお聞きしたいのですが、怪我をされているときの治療のほか、メンタルも保つためにどうされていたのですか。

 

牛島氏:12勝を挙げた年は最多勝利投手の権利もかかっていたんだけど、10勝したあとから右肩に痛みが出て、痛み止めを飲みながら登板していました。結局シーズン終了の1カ月前に降りざるを得なくなって、このまま辞めるのも嫌だなと思って治療することにしたんだけど、どこの病院に行っても無理でしょうと言われました。

いくつかの病院を回ったら納得いく説明をしてくれたところがあって、それによると、棘下筋(ルビ:きょくかきん)という、肩甲骨の後ろから肩の前まで肩甲骨を覆うように付着している筋肉が剝がれていて、ここがボールを投げるときに使えないし、投げるたびに肩の前で剥がれた部分が当たるため痛くなるということでした。いまなら、大谷選手も治療した肘の靭帯再建のトミー・ジョン手術など治療も進歩していますが、僕の時代はまだそんな手術が出始めた頃で、いろいろと自分で学ばなければならなかった。

棘下筋には深層を覆う肩のインナーマッスルと呼ばれる腱板筋という細い筋肉のスジがあって、そこを鍛えることで投げられるようにするというトレーニングを開始しました。最初はテーブル拭きのようなトレーニングです。外側のアウターマッスルは動かさないで、インナーマッスルだけで腕を動かす。すると筋肉の内側からじわっと熱くなってきます。その時点でいったんやめて、冷めてきたら同じ動作をする。これを何回も繰り返していくうちに、インナーマッスルが少しずつ強くなっていくんですね。そうしたら、だんだん負荷をかけていきましょうということで、ゴムを使って腕を上げたり振っていったりしていきます。ゴムも7段階の強度があって、少しずつ負荷がかかるものにしていく。そんなことをあきらめずにやっていたらボールが放れるようになったんですよ。

 

山本:記録をたどりますと、1990年のシーズン1カ月前に右肩痛で投げなくなってから、いまお話にあったようなトレーニングをして克服するものの、やっと投げられるようになった頃、血行障害にも苦しめられ1991年も未勝利。1992年4月7日の対福岡ダイエー1回戦で、924日ぶりの勝利を完投で飾っています。

肩の怪我から次は血行障害となりながらの復活勝利。ここにはご本人にしかわからない苦労があったと思います。

 

牛島氏:でも血行障害のほうはつらかった。リハビリ医院の院長、脊椎専門の先生、腰椎の先生、ペインクリニックの先生など全員が集まってくれて検査をしたんだけれど、血管も大丈夫、造影検査をしても異常なしだったんですよ。

そして、理学療法士に診てもらったところ、表面の筋肉ではなくて肋骨の中にある内臓を守る筋肉がガチガチになっているということがわかったんです。そこで呼吸器を使ってリハビリをしたのですが筋肉が緩まない。ならばと、肋骨の筋肉に刺激を与えるということをされて、もう叫ぶほど痛いのなんのって。「もう野球できなくなってもいいから私生活ができるようにしてください」と頼んだくらいでしたから。

でも、リハビリを続けていくうちに、1年半自由に動かなかった首のほうがよくなって、ボールを投げられるようになったんです。924日ぶりの勝利は、最初は行けるところまで行こうと思ったんですが、あれよあれよという間に最後まで投げることができて、自分としては自信につながったと思います。

でも、これまでの感覚とは全然違うんですよ。たとえば、右バッターのインコースに投げるつもりがアウトコースに行ってしまう。このズレは1軍に戻っても気持ち悪いままで、相手バッターと試合をするというよりも自分の体と試合をしている感じでした。ですから、無理言って引退させてもらいました。

 

山本:もう一度投げるために、ありとあらゆることをされての復活は凡人にはとてもマネできないことです。しかも、当時はあまり知られていなかったインナーマッスルのことなど、体の構造についても勉強されていて、本当に専門的なお話までお聞きすることができました。でも、やはり怪我はピッチャーとしての宿命なのですかね。

 

牛島氏:最後は怪我との闘いでしたが、高校から150球、200球とずっと投げ続けているんですよね。練習試合も各校遠征に来るんですが、土曜日、日曜日と1試合ずつ完投するっていうのがノルマでした。これが毎週毎週ありますから、もうふつうに体を壊しますよ。

いまは投球制限がありますが、僕の場合は、そんな経験からめちゃくちゃ無理して投げないようになっていきました。別に手を抜くというのではないですが、どうやったら楽になるだろう、どうやったら球数を減らせるんだろうと思って、フォアボールを減らそうとか早めのカウントで打たせようとか考えていました。

僕は体も大きくないほうだし、この体でプロでも投げ続けることができたのも、そうした経験が生きたんじゃないかなと思っています。

 

山本:そのお話で思い出したのですが、簑島との決勝戦で、監督からの敬遠という指示で伝令が来て放ったひと言です。「投げてんは俺や。黙って見とけ!」と。これは牛島伝説の1つと言っていいですが、ピッチャーが自分自身をわかっているということですね。

 

牛島氏:もうそのまんまの言葉ですよ。決勝まで4連投してもうフラフラで、実際に決勝戦の朝からフラフラでした。点は取られるし、体も動かない。とくに敬遠の相手バッターがサイクルヒット(注:ヒット、ツーベースヒット、スリーベースヒット、ホームランすべてを打つヒット)がかかっていた場面でしたからね。

伝令に同級生のやつが来て「敬遠しろ」というベンチからの指令を伝えに来たんだけど、ここで4球放るのかと思ったら嫌になって「投げてんは俺や。黙って見とけ!」と言ったんです。そうしたら、そいつがそのままの言葉で監督に伝えたんですよ。もうアホですよ。そこはうまく言い換えて、「勝負させてくれ」って言えばいいのに。監督も怒っていて大変でした。

 

山本:とても浪商らしいです。その伝説は伝令がつくったといってもおかしくないですね。でも、たしかにフラフラの状態の中で投げていて敬遠の4球はきつい。いまは申告故意四球(ボール球を4球投げなくても、最初からまたは途中でフォアボールを申告できる制度)がありますから余計な球数を減らすことができます。もしいまのようなさまざまなルールがあれば、牛島さんももっと長くプロ野球選手として活躍されたことと思います。

最近は野球人口が減っていると聞きます。先日行われた春季大会では、牛島さんが戦った簑島高校が初戦コールド負けで、今年1年生が入部しなければ廃部という危機に見舞われています。そこで子どもたちの指導もしていらっしゃる牛島さんに、野球人として思うことについてお聞かせください。

 

牛島氏:箕島は和歌山県の高校ですが、ここでも少子化になっているし、いまでは野球だけではなくスポーツの選択肢も増えています。そんななかで、やはり野球の楽しさを知ってもらうことでしょうね。

ちょうど昨日も散歩をしながら小学校低学年の子どもたちが野球をやっているのを見ていましたが、どんどん盗塁させているのを見たときに、ピッチャーの球もそれほど速くないし、キャッチャーの肩も強くない。まだ体も小さいし当然なんですが、アウトになんかできない。フォアボールで塁に出れば2塁、3塁まで平気で行けてしまう。でも、これでいいのかなと思います。ピッチャーやキャッチャーのメンタルも壊れかねませんし、野球ってつまんねえなって思ってしまう。

本当は野球って面白い、子どもたち自身が野球がしたいというふうにしていかねければならないと思います。だから最初のうちは、三振をしても「お前のスイングはよかったぞ」でいい。

そして、子どもたちがもう少し大きくなったら技術的なことを教えていく。たとえば、30メートルくらいしか投げられない子どもに、「ちょっと体重移動をこうして肘をこう使ったらいいよ」と教えて40メートル投げられるようになった。「こうやって打つと飛距離が出るよ」と教えて、少しでも飛ぶようになった。何か1つでも自分が超えられたと思うことで、また野球が楽しくなる。そんな指導を心がけています。

あとはどんどん失敗をしていいということですね。いまの子どもたちは意外と失敗したことがないから「失敗を怖がるなよ」って言っています。僕なんか山ほど失敗していますから。そういえば、若いときオールスターで遅刻したんですよ。「すみません。申し訳ないです」ってベンチに入っていったんですけど、オールスターを取りまとめていたマネジャーが、あそこでノックしている王さんに「暑いのにご苦労さん」って言ってこいと言われて、本当に「暑いのにご苦労さんです」って言いに行っちゃったもの。まあ、マネジャーにかつがれたんだけど、“世界の王”にご苦労さんですから。

 

山本:それもまた牛島伝説ですね。野球を通じて牛島さんの人生そのものを知ることができました。子ども時代はただ楽しくて野球をしていた少年が高校時代から1人で投げ続けてプロ野球で素晴らしい戦績を上げた。体が壊れていくのは当然で、それでも怪我と闘いながらやれることをすべてやった。そして、その経験を多くの子どもたちに伝えていく。

今日は監督時代のお話をお聞きできませんでしたが、もう一度監督をしてほしいと心から思いました。最後に、牛島さんのこれからをお聞かせください。

 

牛島氏:まあ、監督は縁があればやりたいですね。でもいまは残りの人生を楽しもうかなと思っています。これまでは自分のために生きてきたのかいうとそうでもないような、親や家族のために必死に生きてきたという感じでしたから、まあ1年でも長く生きて楽しもうかなと思っていますよ。

 

山本:いや、まだまだ先は長いですよ。本日は腹を抱えて笑ってしまう話から過酷な怪我の話まで何でもお話しいただき、私自身も興味深い話を聞かせていただきました。

監督牛島を本当に見たいと思っております。本日はありがとうございました。