著名人との対談

VOL.32

渡邊勢山 氏 × 山本一郎

原点回帰、人に備わった五感を大事にする

渡邊勢山 氏 × 山本一郎

対談相手のご紹介

渡邊勢山 氏 × 山本一郎

大仏師

渡邊勢山

seizan watanabe

佛像・佛画の制作及び修復の専門家。1952年神奈川県藤沢市生まれ。大学在学中に仏像彫刻に目覚め、中退して大佛師・松久朋琳・宗琳の内弟子となる。1985年「勢山社 佛像造顕所」設立。総本山・大本山より「大佛師」の称号を授かる。佛画、佛像彫刻教室の指導も行う。

対談の様子

山本:    まずこのお仕事を始めるきっかけというのは何だったのですか?

 

渡邊氏:私は、宗教的な特別な事はしていなくて、学生時代の美術デザイン的な興味きっかけなのです。ただ、この道に入り振り返ってみますと、佛師への遠因となるものは幼いころから何かとあったというような感じはします。

 

山本:    幼い時に、仏像というものに、多少は興味があられたんですか。

 

渡邊氏:そうですね・・・私は小さい頃は身体が弱くて、小学校の2,3年生から気管支ぜんそくということで週に一度、注射を打ちに国立病院に通っていました。減感作注射と言うもので免疫療法ですね。ですから私は小学3年ぐらいから中学校卒業ぐらいまで、自主的に週休2日制を実施していました。(笑)

 

山本:    今はそんな事考えられないですね。

 

渡邊氏:はい。毎週水曜日は公認で遊びに行っても良い日だと言うふうに。で、そんな中で、私は神奈川県藤沢市の出身ですが診察が終わると、すぐ都内に出て、遊び歩いていました。その中に一応お寺もあったのですがね。まあ、今から思うと一番大きなきっかけというのは、新宿の小田急デパートというところで、仏像展をやっていて偶然通りがかった事でしょうか。 会場の奥の方にはきれいな、仏像がずらっーと並んでいるのが見え、有料のものですからそこに入って行こうとまでは思わなかったのですが、ロビーに数体出してあって、それを近くで見て、本当にびっくりしました。きれいな仏さんでね。

関西圏の人と違って、観光寺院がが少ない関東では、仏さんを見ると言う概念と機会があまり無いんですよね。

 

山本:    本山とかも確かに少ないですよね。

 

渡邊氏:そうです。ましてや子供だと、「そんなところに入っちゃいけないよ」、と言う感じですし。実際自分の菩提寺に行くときは法要とか、お骨を預けるという、そういう時になりますから、どちらかと言うと怖いというイメージがありました。

仏さんなんかとても、そばに行って見ようとか、きれいとか、感心するような段階じゃないですからね。それが正直なところでした。だから会場で、できたての仏さんを見て、本当にびっくりしましたね。 佛像の美しかった事と、木肌の美しかった事、今の時代も作っている人がいる事に、驚きましたね。それから機会があるたびに、新宿や都内の色々なデパートめぐりをして・・・。 当時小学校3年か4年の意識ですから、どこに言ったら見られるなんて考えは無く、以前見たところに関係する所に行けば見られる。そういうことで、東京のデパート巡りをしたわけですよ。見つかると思って、でも実際は中々見つからなかったですね。

 

山本    そうですよね。

 

渡邊氏:結果的に、それが佛師への道に繋がる事になったようです。入門後解った事ですが、偶然見た佛像は後に弟子入りする事となった、松久朋琳・宗琳先生の彫刻展でした。その偶然出会った佛像展以降本やテレビで、仏像って聞くと耳が立ち、目が動くという様になりましたね。中学の修学旅行で京都奈良に行く頃には、同級生の誰よりも佛像や仏教美術に関しての知識があった様に思えます。

 

山本    僕もどちらかというと、お葬式だとかそういう所でしか仏像を見る機会が無かったので、随分陰気なものと思っていたのです。今の仕事をやり始め、年に何回もお寺も行くと、やっぱり良いなと原点回帰ができる。学校の教育からいうと、仏像の名前しか教えないので、その人たちがどういう役割をしてきたのかという事を教えていないのです。本当に陰気なものというイメージしか付けさせていなくて、もったいないと思います。

 

渡邊氏:そうですね。仏像の持っている意味っていうのは本来もの凄く広いし、固定すべきものでは無いのですが、逆に知識や教養として集約化しているイメージが強いように思えます。例えば阿修羅像で言えば、日本人の誰に聞いても興福寺の阿修羅像、阿修羅イコールあの形って言うことになってしまいますが、実はあれはあの阿修羅像を作った佛師<造形家>のイメージであって、阿修羅の絶対的な姿ではないのです。

 

 しかし、そんな事がイメージできないくらい興福寺像が印象に残っている。プラスマイナスの功罪はあるわけですが、そこを入り口にして様々な世界がある事やそれらを分からせる背景を普通の方にもわかるようにね、マスコミもお寺さんも一つのイメージで押し切る安易な説明を避けるべきなのでしょうが・・・。 考え方は自由で良い、佛の姿はそれぞれの心の中にあると言う事を伝えて欲しいですね。

 私達の仕事も一般的には伝統産業というか、伝統を守る仕事って言われるのですが、伝統イコール変わらず守るものと捉えられていますが、決してそうではないんです。

造る立場で言えば常に革新であり、工夫だと思いますね。

 

 しかしながら、世論を誘導するマスコミとか、ネットなんかで主張される知識人の方々

は、歴史の一本化や形式の偏重を重視される方が多く

 大筋は流れの中にいても、物事の本質や体験から出た自分の解釈、素材や技法の変化に伴う変遷、それらも加えた形で伝統と言う言葉は存在すると言うことが、一番良いと思いますよ。今は何となく一味加える事や個人の解釈を、「それはあんたの解釈でしょ!」と否定されてしまう。実際には、新たなモノや歴史を作る際に「あんたの解釈でしょ」以外の方法が何かあるの?って(笑)結局「あんたの解釈」で世の中っていうのは、と言うか歴史は動いてきているわけです。全て教科書やマニュアルに書いてある通りの生き方を、是とし、大衆を誘導する考え方って何?って。そればっかりだと人間って面白くないんじゃないのって思ってしまいますね

 

山本:    そうですね。

 

山本    先程、下の工房で見させていただいた、阿弥陀お釈迦様を浮かすというような事も、僕は非常におもしろいと思いまして、本当に革新的な考え方ですね。

 

渡邊氏:ただ、これも私は奇怪な事をしている訳では無く、仏の制限の無い姿を真剣に考えたら過去の仏師・・・運慶・快慶・定朝であっても表現の手段としては、空中に浮かせたかったと思うのですよ。ただ、技術的にそれが出来なかった時代だった。

今だったら様々な像の支持技法が可能だし、リニアがあり、ホバーも可能になってきた。3Dホログラムで姿を合成する事も出来るような時代に入ってきています。

 仏師っていう仕事は、彫刻家や木彫家ではないんです。その時代の人たちの宗教観、精神的な背景、美意識とかを感じ取り、仏さんと言われる存在を目に見える形に作り上げていくような仕事と思っています。

 

 日本は言うまでも無く樹木の多い国ですし、特に檜(ひのき)という素晴らしい用材の存在もあって、仏像を造るのも当然木材になってきたのは確かなことですから、「佛師イコール木彫家」と見なされるのも間違いでは無いのですが、この先の佛師は何を素材にして精神的な礎を造っているのかと思うと、ちょっと楽しいですね。

 未来の事を語るのは難しいですが、30年先50年先の地球人は宇宙空間に出ているってこと決して絵空事とは思えないんですよね。

 すでに人類は人口衛星を宇宙の彼方に飛ばし、宇宙ステーションでの滞在実験を繰り返していますね。人類が宇宙空間、宇宙ステーションの中で暮らしていく事を想像すると、そこの環境での精神的な拠所って絶対必要になって来ると思っています。

そうすると、先ほどの「空中に浮かせる仏像」のイメージのような、無重量の世界を考えていくと言うのは仏師としては、決して進み過ぎてる考えではないと思うのです。

 

 SFの話の様になってしまいますが、今の人類や地球の置かれている状態を冷静に考えてみれば、人類の地球脱出も絵空事の話では無いと思っていますし、仏師としてはそのような事もイメージの中に入れ像を造り出したいと思っていますね。

 20年以上前から、「仏像を浮かせたい」との思いが彫造のテーマで、折に触れそのような仏像を造って来ましたが、現在二丈(像高6M)の釈迦像を、空中に浮かせようとしています。正確に言えば、浮いてる様に見える(笑)ですけどね。

 仏像を重力から解放したいとの夢は、私の年代で技術的に可能になってきたこともありますし、3Dホログラムや3Dプリンターのような、光や粉末さえあれば出来てしまうようなものが出てくると、宇宙時代、何も素材が無い状態でも、精神の糧となる存在をつくっていく・・・これもこれからの佛師の姿かも知れません。

 

山本仏像の世界では革新的だ、と言う反面、マスコミでは僕らのお墓や仏壇は、お葬式も含めてですが、どんどん淘汰されている。そんなことばかり記事になっています。かたやお寺の拝観は、今までにないぐらい、過去最高で、伊勢神宮にしても、善光寺や清水寺にしても、参拝客が異常に増えています。これはひとえに今までより、外国人が多いと言いますが、日本人もたくさん見に行き、原点回帰しているわけですよね。ただちょっと極端になり、どうなのかな、と。例えば江戸時代の末期みたいに、そういうふうな社会抗争になってきて、文化はどうなっていくのか、峠にきているような気がしてならないですね。しかし、お寺や仏像に対しては礼拝する人が本当に増えています。

 

渡邊氏:異論、ではないですけれども、私のとらえている感じ方とちょっと違う面がありまして。確かに現在観光客は増えていますよ。確かに増えていますけど、仏さんと対話しているのか?まずそれはないと思いますよね。

 

山本そうですね。まだそこまでの原点回帰はしていないですね。

 

渡邊氏:様々な経済要因から仕掛けられて行く(参拝)だけであって、その動機は何かと言えば、健康の為と余暇の消費であり、交通費と宿代セットでいくら、という条件ですよ。訪問地がお寺や神社の施設なだけであって、山であれば山へ行くし、テーマパーク、食の場所でも何でもいい。そんな感じですよね。

決して自分たちに魅力があり、又興味をあって足を運んでいるのでは無いことを自覚しないといけません。その上で寺社の存在理由の精神文化の事や歴史や美術に関心をもっていただけるよう努力し、冠婚葬祭等の重要な意味合い等を無関心な方々に感じていただかないと過去最高の拝観者数がもったいない事になりますね。

 

山本    そこから考えれば良いんですよね。

 

渡邊氏:そうなんです。現状は努力して集めた参拝者では無いのですから、人々の心の中に一滴の水、栄養、甘露を与えてあげる機会・・・と捉えるのが、天が誘導してくれている今の時期だと思います。残念ながら、門から出た直後に拝観の寺社は記憶から消えてしまい、食べたものか草花の記憶しか残っていない。

 

山本:    残念ですけどもね。

 

渡邊氏:総量が増えたからといって質的なことや満足感を一緒にしてはいけないと思います。私が今一番不安に思うのは、日本人でありながら外国人と同じ感覚程度でしか、寺社を構成する様々な要素を理解出来ない事です。本来産まれて来てからの長い時間、その土壌(文化)の中にいるのですから、異なる土壌で育った外国人の感性を通して観る日本文化とは大きく異なるはずです。いずれにしても何かを感じ取ってもらいたいと思いますね。

 

山本    海外に行くと博物館なんかでレコーダーで案内してくれる機械ありますよね。あれをお寺ですると、博物館と同じになり、絶対ダメになるというお寺さんがいるんです。やっぱり日本というのは、真言宗なんかでは特に口伝を大切にしています。なんであのやり方を止めさせようという風潮が強いのか、残念でならないです。僕もその通りだと思っているんです。

 

渡邊氏:こういう世の中ですから、時間を短縮してダイジェスト的に網羅する風潮は強いと思います。だからこそ、悠久の時間と共に歩む場所を訪ねて来たはずですので、その魅力というものを、時間をかけて説明するのも必要ですね。経済的な事や商業的なことでは難しいかもしれませんが。私の仕事で言えば、内容の奥深い事を知っていただく努力をし、自分はこういう価値観を楽しんでいること、そして きちんと生活が成り立っていることを、アピールすべきだと思いますね。お寺さんも共通することがあると思います。

 

山本:    僕らの業界でも、今はもうお墓を建てないとか、納骨を粗末にするとかいろんな考え方があるんですが、やっぱり本質的に戻ってほしい、そういうところも。反面、安価な考え方でやりすぎているところもやっぱりあって、残念ですね。

 

渡邊氏:私が思うに、ヒトの歴史的な進歩を考えると、動物からヒトが抜きん出たというのは、ひとつは弔いという事を学習したからだと思うんです。弔うということは、一体どういうことなのか? 自分と自分に関係する過去を覚えていたい衝動だと思いますね。

亡くなった人の事をいつまでも忘れたくない。それが知恵ある動物から、ヒトに進化した第一歩だと思っています。

 私たちの先祖とされている、40万年前のネアンデルタール人の埋葬地には、花のDNAが自然分布よりもはるかに多くあったそうです。どう考えても、誰かが死を悼み花を手向け忘れたく無い衝動を起こしていた・・・としか言いようがありません。

 魚や小動物の反応なしから始まり、高等動物への移行に伴い死の記憶時間も長くなるそうです。テレビで観た話ですが、象は1週間以上仲間の死の場所から離れないようで、穴に落ちた像などは、一旦その場所を離れ仲間を呼びに行ってでも助けていました。要するに過去を記憶する力が確実にある訳です。長く年忌法要を行い、歴史上の人物になっていても生誕や没日の記念行事を行う・・・人間は死を一番長く記憶する動物であることは間違いないでしょうね。

 

 人類の進歩は、智の部分の見方と情の部分の捉え方がありますが、私は〈智〉は文化、〈情〉は歴史と思っています。

技や知識は、必ずしも文化の高いところから低い所に流れる訳では無く、同程度の文化水準になれば自然発生的に同じような考え方・技が生み出される様に思えますね。

 不便だと思えば工夫しますからね。使う素材が石であれ木であれ、なんであれ、必要に迫られ工夫しますから、似た時期に同じような文化が誕生するように思えます。

その面からいうと、知恵の部分は伝えられて来た記憶が無くても、人的な交流が無くても出てくるものは出てくるんです。

 

 しかし、人間の情感に関わる部分、例えば 死を悼む事や、労ること、励まし、同情、憐憫などは、人類の一歩一歩の積み重ねで会得し伝えられ、人間だけが学習によって会得した文化だと思っています。これが知恵や技を超え存在として、人間の進歩に繋がっているんじゃないか・・・と、思いますね。

それが今、ヒトたる所以である葬儀の持つ意味が変化し家族葬の様に、どんどん小さくなっている現実もあるようです。ヒト同士の関わりをなるべく少なくして煩わしさを避ける。なんとも歯がゆい感じがします。

 コンピューターにしても、機械にしてもそうですけが、人間の考える部分を代弁するものが出来て来てから、記憶して伝える事を人間はそろそろ忘れ始めているんじゃないかな?もう機械に任せたらいいやみたいになっていて、もう記憶力あかんわ~とか言い、笑って済む世の中になりかけてしまっているんです。電話番号なんて覚えてませんもんね。携帯が一番重要な持ち物になってからは(笑)

 

山本:    昔は全部覚えてましたね。相手方の会社の電話番号や住所とかも

 

渡邊氏:もう記憶力を自慢する事ではなくなってしまっているんですよね。そうすると、話を戻せば人類の発生の頃の根本的な要因を私たちは捨て初めてしまったかと。人類の最後尾を歩く私としては凄く怖く感じますよね。

 

山本    怖いですよね。憶えないのは非常に怖いです。

 

渡邊氏:人間の身体の事、頭の中の出来事は、私の知識ではよく分からないですが、単純に数字とか何かを記憶するのでは無く、原点に戻り、亡くなった人を慈しむ気持ちや、その悲しみの情の部分までも忘れてしまったらもう人間ではなくなってしまう。

 

山本今日最初に来させて頂いた時に、神仏融合の話を言って下さいました。日本はそういう点で言うと本当にすばらしい国ですよね。どっちかが絶対に叩かれるはずなんですよ。一神教の考え方はどこの国でも本当に強いので。日本という国は、非常に情に厚い国で、世界的に稀だと思うんです。

 

渡邊氏:やっぱり、情なんですよね。ところが、宗教に関係する様々な職業従事者であっても、どんどん情の方から知の方に移行している。心が籠もっていないな〜と感じる、異様に丁寧な言葉や挨拶は氾濫していますが。

 私の関わる世界を見ても、仏像を評価する学者さんや研究者は、やはりそっちの方なんですね。情とか、気持ちは評価できないんです。ですから、形式論、様式論、時代考証だとか、そういう所から評価軸を持ってくる。

情感で良さを感じている人っていうのは、その像に縁があった事が全てであり、物質的な価値に勝る価値を自分自身の目と心で感じられる凄さをもっていると言うことですね。

 

山本先生にとってお墓と言うものはどういうものなのですか?

 

渡邊氏:私は現代のお墓っていうのが良くわからないんです。

少なくとも遺骸を埋葬する場所では無くなってる。

一個人の自分がこの歴史の中に存在したという証のためのモニュメントなのか?

あるいは代々繋がっていく流れの中で、そこに存在したと言う証なのか?

故人を悼む気持ちがあってこそのお墓なのに、たちまち無縁墓となる現実など

無縁墓となる恐れが多い私などは、お墓に対する落としどころがよくわからないのが正直な所です。皆さんあまりこういうことは考えないのかな?

意味はあるはずなので、その意味は何なのか?そういう事を考えてみないといけないですね。

そんな私ですが、実は一昨年墓地を求めました。大きな観音様の像を彫造した寺院の墓地で、観音堂に一番近い列の真ん中がポツンと空いていましたので、とりあえず確保!

子供のいない私達としては、遠からず無縁さんになって放り出される(笑)事は確実ですが、観音さんを彫ったご縁もあるし、〈観音菩薩彫造佛師の墓〉位の案内看板でも出してくれれば、時折は誰か来てくれるかも・・・なんて理由から決めた訳ですが、家内に初めて話すときは、「縁起が悪いとか」「私は自由にさせてもらうから」とか不穏な言葉も覚悟したのですが、実際は日射しが良いかとか、愛猫の供養塔がそこから見える?とかで新居を探す様な気持ちになり、結構楽しかった事を思い出します。

まぁ、ある程度の年代になれば、お墓の話題は日常の話題の延長なんだな・・・

このあたりが結局は答えなのかもしれませんね。

正確なデータを基にしての話では無いのですが、江戸時代一番多かった仏像は閻魔さんではないかと思っています。今の東京でも閻魔さんを祀った有名なお寺さんは凄く多いです。宗派を問わず閻魔さん、閻魔十王はいるわけです。閻魔十王像、地獄絵、涅槃図は、

どのお寺にも必ずありました。何のためかというと教育の為です。

 

山本こういうことしたらこうなるよ、という教育者なんですね。

 

渡邊氏:閻魔さんは地蔵菩薩の化身であり、自ら冥界の王となって地獄に落ちた亡者を

救うとされており、7日毎に続く月命日は、閻魔十王の裁判の日なのですが、

この日の法要で集まった方々は言わば傍聴人、親類や縁者、友人達です。

要するに事情徴収の際に嘆願書をいっぱいだしてくれる人がいれば、閻魔さんも裁判をやりやすくなるわけですね。

そんな地獄の世界観を江戸の庶民はことある毎に見聞きしていた訳で、素晴らしい教育だったと思いますね。地獄の話は説話としても本当に面白く良く出来ていると思いますので

是非現在の教育現場にも登場して頂きたいものです。

 

山本その閻魔大王の、舌を抜かれるぞという話をおじいちゃんおばあちゃんから聞いた時に、嘘ついたら、ダメだと、幼少期かわいい頃だったんですよね。今だったらネットで調べて、「そんなことは嘘です」とかありますよね。だから、それがだめなんでしょうね。なんでこういわれているのかって言うことを考えないと。

 

渡邊氏:子供に教える世代が空洞になっている事と、電脳世界ですぐ裏を取られてしまいます。体験していない事は自信を持って「理屈じゃない!気持ちの問題だ」と言える状況にならないですね。

私はそういう事を母から聞く最後の世代だったのかも知れません。事ある毎にお天道様

つまり太陽も指した言葉なんですが、天の道にそむく、あるいは理に逆らってはだめだよ、と。理に逆らうってことは、人との戯れだけでなくて、自然との付き合いに対しても

トラブルを自ら受けてしまうのです。

高貴な如来さんや菩薩さんの話は置いといても、地獄や閻魔さんの話は 今の世の中こそ必要としている人が多そうですよね。

 

山本そうですね。お天道さんに背くということで思い出しましたが、牛に牛骨粉を食べさせて狂牛病になった、という話も理に反した間違いですよね。

 

渡邊氏:やはり人間も同じ空気を吸って、地球と言う運命共同体の中にいる以上、天道さまに背く事や天の理に反する事、要するに上流から下流に流れて行くのが理だとしたら、それに逆らって事を起こす事は何らかの出来事を覚悟する必要がありそうです。

現在の人間の知識と機械力があれば、神の様な事も出来てしまいます。

例えば 流れを堰き止め巨大ダムを造る。それが何百年単位で維持できるかというと、出来る訳がないですよね。10年ほど前に長江を堰き止め巨大なダムが出来ました。

せき止められた渓谷には実に延長700キロのダム湖が出来たそうで、今まで水なんか含んだ事の無い岩盤が水を含み始めているようで、それが今後どうなるのかわからず、大きな不安要素になっているようです。

 

山本自然に反することですね。

 

渡邊氏:人間はやりたいことを思えば何でも実現出来る力があるのは確かな事です。どんなことだって

出来ると思うけど、天の理に逆らっている事なのか、ある程度天の理に重きを置いているものなのかで結果は大きく異なるはずです。それだけに神佛やご先祖様、古代人の持つ直感など、今更ながらではあるのですが人に備わった五感を大事にする必要があるのでは無いでしょうか。

 

山本いろいろいいお話をありがとうございました。