備中松山城について
投稿日:2024年09月19日
こんにちは、枚方の霊園ハピネスパーク牧野霊園の栗原です。
9月に入りましたがまだまだ暑い日が続きますね。外での作業
等をすると汗が止まらないほどです。暫時休憩しつつ考動し
ています。
牧野霊園の植栽はまだまだ夏の真っ最中で秋の気配は全くして
いません。まだまだ秋には程遠いようです。今月の後半はすこし
づつ秋に近づいてほしいものです。
備中松山城について
備中松山城は岡山県高梁市内山下にあった日本のお城です。各地
にある同名の城と混同を避けるために備中を付ける事が一般的で
す。現存天守十二城の一つでもあり、この中で唯一の山城であり
ます。江戸時代は備中松山藩の時代は山城で不便なため城下町に
政庁を構え政務を行いました、跡地は高校となっています。江戸
時代に建造されたものは重要文化財に指定されその他に石垣や門
土塀が現存します。日本三大山城の一つとされています。
鎌倉時代に秋庭氏が最初の城を築き、その後髙橋氏が城を拡張し
ました。上野氏、庄氏、三村氏と変遷しました。戦国時代の三村
氏の時代に一大城塞となりました。宇喜田氏を迎撃した際庄氏に
城を乗っ取られましたが、毛利氏の助けにより城を奪還しました。
その後毛利氏から離反し織田氏に寝返りましたが、毛利氏に滅ぼ
されました。関ヶ原の戦い後城番が置かれそのころ政庁が置かれ
ました。その後池田氏が城主となりましたが廃絶、水谷氏が入封
し、その際大改修が行われ現在の姿となりました。水谷氏断絶後
赤穂浪士で有名な大石内蔵助が城番となり、のち安藤氏が入封し
ましたが転封、石川氏が入封したが、転封になると板倉氏が入封
し、明治迄8代続いた。明治維新後廃城令が公布され、成長は取
り壊されましたが山上の建物は不便すぎて放置され崩壊寸前まで
になりました。昭和初期に地元教師により調査され詳細の記録を
本に記し刊行され、それがきっかけで修復の機運が高まり、予算
が組まれ修復されていきました。平成6年より本丸の復元が行われ
次々と復元されました。
戦国時代には織田氏と毛利氏の争いの舞台となった地域にあるお
城なのでぜひ調べてみて下さい。
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